きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2012年2月11日土曜日

「愛する人」になんかなれない、という話。

今日はキリスト教で言われる「愛」というテーマ、あるいは「優しさ」について。分かりにくい説明が続くので、最後の《結論》を先読んでもらって、興味もってくれる奇特な人(←)だけ本文読まれることをおすすめします。
ちなみに、一箇前のBUMPのレヴュー記事「ひとりごと」も関連してるので、読んでない人いたらどうぞ。

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「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と聖書は言う。
クリスチャン、あるいはそうでない人のなかには、そのような生き方を求めている人もいる(ちなみにそういうことを考えたことがない人にとっては、この記事の内容は恐ろしくつまらないと思う)。
しかしながら、私たちは「人を愛せる人」になんてなれるのだろうか。


愛とはなんだろうか。イエスの言葉を引こう。
「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう」
「ただ、自分の敵を愛しなさい」。
聖書の求める〈愛〉は、決して生易しくない。
自分にとっての敵とは、すなわち自分が愛せない人のことだ。
敵は敵だから愛せないのであって、その相手を自分が愛せるようになるならば、その人はもはや敵ではないだろう。
私たちに要求されていることは、愛せない人を愛すること、あるいは(例えば大好きなあの人を)愛せない状態のときにこそ愛することなのである。
それでは結局イエスは、私たちの能力では不可能なことを求めているのだろうか。


ここで敢えて言いたい。答えはイエスである。
前述したことに従って、愛とは「自分の愛せない人を愛すること」だとしよう。そうするならば、私はどこまでいっても「人を愛せる人」には決してなれない。
なぜなら、単純化して言えば、たとえある人を「愛せる」ようになったとしても、その時点でその人への愛は「愛せない人を愛する」愛ではなくなっているからだ(なぜならその相手はもうすでに自分が「愛せる」人だから)。

…ややこしい。シンプルなかたちで考えれば分かりやすいだろうか。
僕たちは、嫌いだった人(仮にAさんとしよう)のことを好きになることがありえる。
それは、「愛せない人を愛する」ようになったと呼べるかもしれない。
だけど考えてみると、Aさんが自分の友となった時点で、そのAさんへの「愛」は「自分の敵」への愛ではなくなる。
求められているのは、自分の敵への愛、言い換えれば自分が愛せない人への愛であるにも関わらず。

もっとも、僕たちにとって敵というほどの人はなかなかいないかもしれない。
しかしながら、私たちはいろんな状況において友人や知り合いのことを「敵」(=愛せない人)と見なしているのではないだろうか。
「あいつありえねーわ」と相手のことを否定する言葉を吐き、言葉と態度で自分の不快さをアピールしたり、距離を取ったりする。
あるいは、腹の中では相手への憎しみを抱きつつ、何食わぬ顔でやり過ごすこともある。
家族、友人、恋人etc...親しい人に好意的に接することのできない経験を誰しも持っている。
いずれにせよ、私たちはこのようなとき、相手を愛することに究極的な難しさを感じるだろう。
しかし聖書で求められているのは、自分が愛せない状況での愛なのだ。



愛の本質が「敵を愛する」こと、言い換えれば「自分を超え出て愛すること」にあるとするならば、愛が可能になるとき、それは愛が不可能になるときである。
なぜなら、私が「愛せない」という自分を超え出て他者を愛せるようになったとき、その〈愛〉はもはや「自分が実践できる愛」に変わっている。
つまり、相手はもはや「敵」ではなく、「愛せない状況」もそこにはなくなっている。
しかしながら残念なことに、私にとっての「愛せない状況」は別の場所にいくらでも転がっている。
瞬間的に実践した〈愛〉の直後には、私はまた「愛せない自分」に戻ってしまうのだ。

結果、私はどこまでいっても、「人を愛せる人」=「敵を愛せる人」には決してなれない。
もし仮に、「人を愛せる人」がいるとするならば、それは絶えず自らの愛せないという状況において「自分を超え出て愛すること」を実践し続けられる人だ。
それは恐らく神の領分である。
私たち人間に可能なのは、ときおり瞬間的に他者を愛することへと抜け出ることができるだけなのだろう。それもきっと、自分の力ではない。


《結論》
ときに私たちは、「人を愛せる人になる」ことを求める。優しい人になりたいと願う。
私たちは、いわゆる「愛のある人」「優しい人」にはなれるかもしれない。
だけど根本的に重要なのは、私たちが人を愛せない状況があるということであり、そのようななかでこそ〈愛〉が問われるということである。
どこかに「愛する人」というゴールがあって、そのレベルまで達したら安心、ということではないのだ。
私たちは、どこまで「成長」しても「愛する人」の位置には留まり続けられない。絶えず、「愛せない人」へと転落していっている。

私たちは、愛の性質を自分の所有物として獲得することは出来ず、愛へと繋がる回路をその都度開き続けることしかできないのである。
それは「他者を愛する人になる」ことではなく、「相手を愛さなくていい言い訳を探す自分」を正当化することをやめ、天から贈られてくる愛への招きに応え続けていくことなのではないだろうか。

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