2012/02/20
☆☆☆☆★
最近耳にすることが多かったこの本。著者は、内村鑑三。積読していた本を取り出し、やっと読むに至った。心が震える本だった。本の内容を要約するフレーズはこうだ。「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。……何人にも遺し得る最大遺物——それは高尚なる生涯である」。
僕個人としては、残念ながら(?)、後の「世」に何を遺すかということにそれほど関心がない。本に言及されているような、「われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして逝こうではないか」といった美しい願いを強くもっているわけでもない。それは僕のなかの「世の中」や「社会」への関心の薄さが原因かもしれない。
ただ、立ち止まって考えるとき、僕が(厚かましくも)人の人生に何かを遺したいと願っていることに気付く。あるいは、人の心にどうにか触れたいと思っている。人間の総体としての「社会」にはさほど興味はあまりないが、自分の目の前に現れる一人の人との関わりのなかに自分の生き甲斐を感じている。その意味で、僕たちが他者に遺し得る「最大遺物」が何であるかを語ったこの書はとても興味深かった。
内村鑑三にとって、我々が後世へと遺すことの出来る「最大遺物」とは、「勇ましい高尚なる生涯」であると言う。直後の内村の言い換えが含蓄に飛んでいる。彼によれば、「勇ましい高尚なる生涯」とは、
すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。
「高尚なる生涯」が「信ずること」と等価だというのはどういうことであろうか。不思議な言い換えである。思うに内村は、この世を(ひいては私の生を)支配している何ものか(=「天」)に対する根源的な信頼、それなくして私たちは「高尚なる生涯」を送ることも贈ることもできないと言っているのだ。
きっと僕らは、絶えず何かを恐れて生きている。周りの人の評価に対する恐れ。失敗して痛手を被ることへの恐れ。本気でトライして挫折することへの恐れ。自分に失望することへの恐れ。理解されないことへの恐れ。僕はそういった恐れのなかで、縮こまって生きることを学んできた。
だけど、「天」が信頼に足る存在だとしたらどうだろう。僕がこの与えられた生に精一杯向き合うときに、この世界は、僕によいもので応えてくれるだろうか。僕はそのことを信じていいのだろうか。苦難に立ち向かったときにも与えられるであろう希望への信頼、そこに立つことができるならば、きっと僕はもっと自由になれる。恐れに縛られずに生きていける。
この本が最終的に言わんとしていることは、「後世」がどうとかいうことではない。「自分の生を生きる」ということなのだと思う。誰のものでもない、自分に与えられた生を、自分らしく。この与えられた人生において、いかに困難や苦しみが増し加わったとしても、それでもなお決して陰ることのない希望をもってよいのだという信頼を、僕はどれほど確かなものとして握っているだろうか。
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