最近つくづく思うのだが、論理展開がしっかりした話と相手に伝わる話は結構違ったりする。先行研究をきちんと抑えて、予想されうる批判に先回りして答えて、論理的整合性整えて、という学問上当然踏むべきプロセスが、僕の言葉を臆病で生気のないものとしているように思える。批判されない「客観的」な文章を書こうと紡いだ言葉が、箸にも棒にもかからないつまらない文章になっているように思う(もちろんそれは僕の力不足でもある)。
アノ雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです。青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチからも引き抜き、コッチからも引き抜いて、それを鋏刀と糊とでくっつけたような論文を出すから〔私はそれを〕読まないのです。
『後世への最大遺物』を読んでいて気付かされたのは、思想とはそういった論文執筆のプロセス以上のものであるということだ。僕は論理的整合性が完璧な文章を書きたいのではない。あるいは、特定の学問界で受け容れられる「研究価値の高い」論文を書きたいのではない。もっといえば、おそらく僕は自分の思考を書き残したいのでもない。ただ、「己の信ずること」の内実を確認するために、そしてそれを実行するための準備段階として、思考を重ねていきたいのだと思う。…んー、こう考えると、僕はやっぱり研究者は向いてないのだろうか笑
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