きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2012年2月19日日曜日

言葉は通じないのがデフォルト、という話。

聖書のなかには、「バベルの塔」という話がある。有名すぎる話なので敢えてここで説明する必要もないだろうが、簡単に言うと、昔々自分たちの権威を示そうとして塔を立て始めたバベルの人たちが、神によって「ことば」を混乱させられ、互いのコミュニケーションが不可能になったという話。聖書によるなら、それまでは世界には「ひとつのことば」しかなかったらしいから、この事件によって世界の諸言語が別れ出たということになる。
 しかしおそらく、聖書がこのストーリーを通して言おうとしていることは、諸言語の発生の起源ではない。むしろこの話は、「言語」というものの本質について語っているのではないだろうか。そう考えると、この物語は本当に面白い!

 どういうことか。僕たちは、日本語なら日本語を喋っている限り、その日本語を話す二人の間でコミュニケーションは成立していると思っている。しかしよく考えてみると、僕たちの人生において、どうしても話が通じない人と出くわすことがある。相手もこっちも「同じ」日本語を話しているはずなのに、どうやってもコミュニケーションが通じない、そんな場合がある。あるいは、とても自分と近しい人に対してでさえ、「あぁこの人も自分のことを分かってはくれないんだ」と感じる場合もある。どんなに言葉を尽くして説明しても相手に理解してもらえない経験、あるいはその逆に、どんなに分かろうとしても相手の言葉の真意を理解することの出来ない経験、そういった現実を僕たちは何度も味わってきたと思う。
 そう考えると、僕らは「一つの言葉」を話しているようでいて、その言葉は実は何ら「一つ」ではない、ということに気付かされる。僕の「嬉しい」とあの人の「嬉しい」が違うように。僕の「大丈夫」とあの人の「大丈夫」が全く違うように。もし言葉が全くの「一つ」で、コミュニケーションに何の齟齬も生じないとしたら、私たちは他の人との関係でこれほど悩まずに済んだだろう。日本語という「同一」の言語を喋っている場合でさえも、私たちは他者との透明なコミュニケーションが不可能なのである。「ことばが混乱させられる」という起源を描いたバベルの塔の物語が示唆しているのは、このことなのではないだろうか。

 一つ立ち止まって考えたい。神は何故「ことば」を混乱させたのだろうか。その理由は、「ひとつのことば」しかなかった時代(つまり、人間がバベられる以前)において、人がどんどん尊大になっていったからであるという。人は神のようになろうとし、自らの力を誇示するため天まで届く塔を建設していった。ある意味で、「ひとつのことば」(共通言語)を持つとき人間は尊大になるのである。
 「ひとつのことば」しかないとき、すなわち他者との関係に齟齬が見出されないときに、人は自分自身を省みなくなる。これは当たり前のことだ。自分の言葉はすべて相手に受け容れられ、相手の言葉はすべて理解可能、そんな状態が当然のことになれば、人は自分を神だと思うようになるだろう。

 しかし、神は私たちが「ひとつのことば」を持つことを許されなかった。「ことば」を限界あるものとして定められた。そして僕たちが、他の人との間に取り結んでいく関係を、とてつもなく難しいものにされた。
 だから僕らは、他者関係にこれほどまでに葛藤し悩み、そしてその困難をどうにか超え出ようとするのだ。そしてどうあがいても通じない言葉のやりとりのなかで、自分には与り知らない他者がいることに僕らは気付く。決して自分の気持ちを充分には表現してはくれない、そんな「言葉」の限界に直面して、そのもどかしさと煩わしさを通して、他者と通じ合いたいと切に願う自分を発見する。そこで人は初めて、自分は神などではなく、一人だけでは決して生きてはいけない、他者と共に生きることを必要とする弱く脆い存在なのだと気付くのかもしれない。

 しかし人はときに、コミュニケーションの不和を経験するとき、ただ相手を非難する側に回ることがある。「言葉」に限界があるのだとすれば、他者とは自分には決して捉えきることのできない存在なはずである。しかし僕たちは、その自分には分かりえない他者のあり方を尊重することができずに、自分の価値観を絶対視し、自分の「言葉」を相手が理解しないのは誤りだとさえ主張する。

 僕たちは互いに、完全には分かり合えない存在である。そうであるからこそ、他者と自分が取り結ぶコミュニケーションが成立することがいかに驚くべきことなのか、僕たちはもっと自覚的になってもよいのではないだろうか。「分かり合える」その瞬間が奇跡だと気付いたとき、僕たちは他者との関係をもっと大切に出来るのではないだろうか。



PS
 次回は、神が混乱させたはずの「ひとつのことば」(共通言語)を人間が再び持とうとしている(あるいは持っていると錯覚している)のではないか、という話をしようと考えています。


※この記事は、僕の属している大学院のコースの仲間内で発行している月刊誌「智誌」の一月号・二月号に掲載した論文の内容の一部を、一般向けの言葉で新たに書きあらわしたものです。

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