きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2012年2月28日火曜日

レヴュー “Good Will Hunting”

2012.02.27
監督:ガス・ヴァン・サント
☆☆☆☆★

大学の友人の家で映画“Good Will Hunting”を観た。もし僕が教師になるとしたら、授業中に生徒に是非とも観せたい、そんな映画。
映画はすごい。小説もすごい。絵本もすごい。最近よくそんなことを考える。僕が学びのなかでやりたいことは、映画だとか文学だとか絵本だとかが表現しているものを、学問の世界のなかで言語化していくことなのだと思う。合理性や科学的な客観知では語りえないものを、敢えて学問のフィールドで、そこでの言葉を通して紡いでいくこと。それをきっと目指している。
この映画もまた、「学問知」では掬いきれない人間の生のあり方を、飾らず、それでいて見事なまでに美しく、描いている。

セラピストのショーンは、“What do you want to do?”と、超天才・博学の問題児ウィルに問いかける。どんな議論においても大人をやり込めることが出来たウィルは、しかし、この問いへの答えに窮した。人は、外から得た知識や常識を振りかざしいくらでも「問題なく」生活することが出来る。それっぽく振る舞うことが出来る。だけど、僕らは「自分が本当は何をしたい人間なのか」こんな単純な問いに答えることが出来なかったりする。意外と自分自身のことを知らないし、無意識に知るのを避けている。
僕らは自分を知るのが恐い。他人に自分を知られるのはもっと恐い。なぜなら自分が弱くて、そこにどれほどドロドロしたものが渦巻いているか、無意識に知っているから。自分のありのままの姿なんて受け容れられないのではないかと疑い、そして始めから自分を隠して生きることを選ぶ。他者に拒絶されるリスクを冒す必要なんてないわけだから。
だから、知識や能力を盾に、あるいは常識や権威を笠に着て、自分を強く見せようとする。自分は世の中をそれなりに渡り歩いている人で、一人前の存在として、弱者などでない、と。そのようなかたちで他者から認められようとする。
僕らは弱い。どうしようもなく脆い。だからこそ、傷つけられ、失望するなかで、心を守ることを覚えていく。傷つかないで済むように自分の柔らかで脆弱な部分を武装するようになる。

僕のなかに、一つの原イメージがある。がちがちの鎧兜と剣で身を纏った兵士に対して、無防備な姿で無邪気に話しかける女の子。身を守るための鎧も、他者を斬りつけるための剣も何も持たずに、一輪の花だけを手に微笑む少女。
手にした剣で斬りつけたら一瞬で絶命してしまうであろう、そんな姿を躊躇なくさらけ出す少女を前にするとき、兵士は自分が何から身を守っているのか分からなくなるかもしれない。心を武装することで自分が見失ってしまったものを、この少女はきっと持っている。

相手に切り込まれるかもしれないという危険を冒しながらも、自分の姿を飾らずに相手にさらけ出していく、それはとても美しく勇気ある行為なのだと思う。
当初ウィルは、セラピーに通うことを拒否していた。自分の心の暗闇に触れられることが嫌だったのだろう。しかしショーンによるセラピーを通して、ウィルは少しずつ自らの内側を話すようになっていく。しかしそれは、セラピストであるショーン自身がまず自らの弱く脆い部分を分かち合うことから始まった。恐れていた通り、それを聞いたウィルは、ショーンのその「弱点」を抉り傷つけもした。しかし、関係はそこで終わらなかった。ウィルは徐々にショーンに心を開いていくようになる。
そしてウィルは自分の振り返りたくない過去を見つめ始める。生育環境で傷を負い、決して健全とは言えない育ち方をしてきたウィルに対して、ショーンは“It’s not your fault”と繰り返し繰り返し語りかけた。「自分のせいではない」ことを頭では分かってそう振る舞いつつも、そんな自分自身を実は決して認められていない、そんなウィルに代わって、ショーンは執拗なまでにこの言葉をウィルに伝える。「お前は悪くない」と。映画のなかで一番共感を覚えた名シーンだ。

ショーンがそのようにしたように、自らの弱さをまず先に分かち合うことは、結果的に「怖がらないで」のサインになるのだと思う。そのサインは、人の関係は闘いや競争や優劣の関係だけにあるんじゃないってことを、私たちに教えてくれる。
ショーンはウィルに問う「親友(soul mate)はいるか?」と。そして続けて「魂に触れるのが本当の親友だ」と言う。もしそこが傷つけられたら立ち直れない、それほど脆い自分の魂のありのままの姿をさらけ出せる相手。それを受け容れ、そこに対して偽りなく語りかけてくれる相手。そんな相手を親友と呼ぶのだろう。

2012年2月21日火曜日

レヴュー『後世への最大遺物』 続

最近つくづく思うのだが、論理展開がしっかりした話と相手に伝わる話は結構違ったりする。先行研究をきちんと抑えて、予想されうる批判に先回りして答えて、論理的整合性整えて、という学問上当然踏むべきプロセスが、僕の言葉を臆病で生気のないものとしているように思える。批判されない「客観的」な文章を書こうと紡いだ言葉が、箸にも棒にもかからないつまらない文章になっているように思う(もちろんそれは僕の力不足でもある)。

アノ雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです。青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチからも引き抜き、コッチからも引き抜いて、それを鋏刀と糊とでくっつけたような論文を出すから〔私はそれを〕読まないのです。

 『後世への最大遺物』を読んでいて気付かされたのは、思想とはそういった論文執筆のプロセス以上のものであるということだ。僕は論理的整合性が完璧な文章を書きたいのではない。あるいは、特定の学問界で受け容れられる「研究価値の高い」論文を書きたいのではない。もっといえば、おそらく僕は自分の思考を書き残したいのでもない。ただ、「己の信ずること」の内実を確認するために、そしてそれを実行するための準備段階として、思考を重ねていきたいのだと思う。…んー、こう考えると、僕はやっぱり研究者は向いてないのだろうか笑

2012年2月20日月曜日

レヴュー『後世への最大遺物』

2012/02/20
☆☆☆☆★

 最近耳にすることが多かったこの本。著者は、内村鑑三。積読していた本を取り出し、やっと読むに至った。心が震える本だった。本の内容を要約するフレーズはこうだ。「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。……何人にも遺し得る最大遺物——それは高尚なる生涯である」。

 僕個人としては、残念ながら(?)、後の「世」に何を遺すかということにそれほど関心がない。本に言及されているような、「われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして逝こうではないか」といった美しい願いを強くもっているわけでもない。それは僕のなかの「世の中」や「社会」への関心の薄さが原因かもしれない。
 ただ、立ち止まって考えるとき、僕が(厚かましくも)人の人生に何かを遺したいと願っていることに気付く。あるいは、人の心にどうにか触れたいと思っている。人間の総体としての「社会」にはさほど興味はあまりないが、自分の目の前に現れる一人の人との関わりのなかに自分の生き甲斐を感じている。その意味で、僕たちが他者に遺し得る「最大遺物」が何であるかを語ったこの書はとても興味深かった。


 内村鑑三にとって、我々が後世へと遺すことの出来る「最大遺物」とは、「勇ましい高尚なる生涯」であると言う。直後の内村の言い換えが含蓄に飛んでいる。彼によれば、「勇ましい高尚なる生涯」とは、

すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。

「高尚なる生涯」が「信ずること」と等価だというのはどういうことであろうか。不思議な言い換えである。思うに内村は、この世を(ひいては私の生を)支配している何ものか(=「天」)に対する根源的な信頼、それなくして私たちは「高尚なる生涯」を送ることも贈ることもできないと言っているのだ。
 きっと僕らは、絶えず何かを恐れて生きている。周りの人の評価に対する恐れ。失敗して痛手を被ることへの恐れ。本気でトライして挫折することへの恐れ。自分に失望することへの恐れ。理解されないことへの恐れ。僕はそういった恐れのなかで、縮こまって生きることを学んできた。
 だけど、「天」が信頼に足る存在だとしたらどうだろう。僕がこの与えられた生に精一杯向き合うときに、この世界は、僕によいもので応えてくれるだろうか。僕はそのことを信じていいのだろうか。苦難に立ち向かったときにも与えられるであろう希望への信頼、そこに立つことができるならば、きっと僕はもっと自由になれる。恐れに縛られずに生きていける。
 この本が最終的に言わんとしていることは、「後世」がどうとかいうことではない。「自分の生を生きる」ということなのだと思う。誰のものでもない、自分に与えられた生を、自分らしく。この与えられた人生において、いかに困難や苦しみが増し加わったとしても、それでもなお決して陰ることのない希望をもってよいのだという信頼を、僕はどれほど確かなものとして握っているだろうか。

2012年2月19日日曜日

言葉は通じないのがデフォルト、という話。

聖書のなかには、「バベルの塔」という話がある。有名すぎる話なので敢えてここで説明する必要もないだろうが、簡単に言うと、昔々自分たちの権威を示そうとして塔を立て始めたバベルの人たちが、神によって「ことば」を混乱させられ、互いのコミュニケーションが不可能になったという話。聖書によるなら、それまでは世界には「ひとつのことば」しかなかったらしいから、この事件によって世界の諸言語が別れ出たということになる。
 しかしおそらく、聖書がこのストーリーを通して言おうとしていることは、諸言語の発生の起源ではない。むしろこの話は、「言語」というものの本質について語っているのではないだろうか。そう考えると、この物語は本当に面白い!

 どういうことか。僕たちは、日本語なら日本語を喋っている限り、その日本語を話す二人の間でコミュニケーションは成立していると思っている。しかしよく考えてみると、僕たちの人生において、どうしても話が通じない人と出くわすことがある。相手もこっちも「同じ」日本語を話しているはずなのに、どうやってもコミュニケーションが通じない、そんな場合がある。あるいは、とても自分と近しい人に対してでさえ、「あぁこの人も自分のことを分かってはくれないんだ」と感じる場合もある。どんなに言葉を尽くして説明しても相手に理解してもらえない経験、あるいはその逆に、どんなに分かろうとしても相手の言葉の真意を理解することの出来ない経験、そういった現実を僕たちは何度も味わってきたと思う。
 そう考えると、僕らは「一つの言葉」を話しているようでいて、その言葉は実は何ら「一つ」ではない、ということに気付かされる。僕の「嬉しい」とあの人の「嬉しい」が違うように。僕の「大丈夫」とあの人の「大丈夫」が全く違うように。もし言葉が全くの「一つ」で、コミュニケーションに何の齟齬も生じないとしたら、私たちは他の人との関係でこれほど悩まずに済んだだろう。日本語という「同一」の言語を喋っている場合でさえも、私たちは他者との透明なコミュニケーションが不可能なのである。「ことばが混乱させられる」という起源を描いたバベルの塔の物語が示唆しているのは、このことなのではないだろうか。

 一つ立ち止まって考えたい。神は何故「ことば」を混乱させたのだろうか。その理由は、「ひとつのことば」しかなかった時代(つまり、人間がバベられる以前)において、人がどんどん尊大になっていったからであるという。人は神のようになろうとし、自らの力を誇示するため天まで届く塔を建設していった。ある意味で、「ひとつのことば」(共通言語)を持つとき人間は尊大になるのである。
 「ひとつのことば」しかないとき、すなわち他者との関係に齟齬が見出されないときに、人は自分自身を省みなくなる。これは当たり前のことだ。自分の言葉はすべて相手に受け容れられ、相手の言葉はすべて理解可能、そんな状態が当然のことになれば、人は自分を神だと思うようになるだろう。

 しかし、神は私たちが「ひとつのことば」を持つことを許されなかった。「ことば」を限界あるものとして定められた。そして僕たちが、他の人との間に取り結んでいく関係を、とてつもなく難しいものにされた。
 だから僕らは、他者関係にこれほどまでに葛藤し悩み、そしてその困難をどうにか超え出ようとするのだ。そしてどうあがいても通じない言葉のやりとりのなかで、自分には与り知らない他者がいることに僕らは気付く。決して自分の気持ちを充分には表現してはくれない、そんな「言葉」の限界に直面して、そのもどかしさと煩わしさを通して、他者と通じ合いたいと切に願う自分を発見する。そこで人は初めて、自分は神などではなく、一人だけでは決して生きてはいけない、他者と共に生きることを必要とする弱く脆い存在なのだと気付くのかもしれない。

 しかし人はときに、コミュニケーションの不和を経験するとき、ただ相手を非難する側に回ることがある。「言葉」に限界があるのだとすれば、他者とは自分には決して捉えきることのできない存在なはずである。しかし僕たちは、その自分には分かりえない他者のあり方を尊重することができずに、自分の価値観を絶対視し、自分の「言葉」を相手が理解しないのは誤りだとさえ主張する。

 僕たちは互いに、完全には分かり合えない存在である。そうであるからこそ、他者と自分が取り結ぶコミュニケーションが成立することがいかに驚くべきことなのか、僕たちはもっと自覚的になってもよいのではないだろうか。「分かり合える」その瞬間が奇跡だと気付いたとき、僕たちは他者との関係をもっと大切に出来るのではないだろうか。



PS
 次回は、神が混乱させたはずの「ひとつのことば」(共通言語)を人間が再び持とうとしている(あるいは持っていると錯覚している)のではないか、という話をしようと考えています。


※この記事は、僕の属している大学院のコースの仲間内で発行している月刊誌「智誌」の一月号・二月号に掲載した論文の内容の一部を、一般向けの言葉で新たに書きあらわしたものです。

2012年2月11日土曜日

「愛する人」になんかなれない、という話。

今日はキリスト教で言われる「愛」というテーマ、あるいは「優しさ」について。分かりにくい説明が続くので、最後の《結論》を先読んでもらって、興味もってくれる奇特な人(←)だけ本文読まれることをおすすめします。
ちなみに、一箇前のBUMPのレヴュー記事「ひとりごと」も関連してるので、読んでない人いたらどうぞ。

_________

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と聖書は言う。
クリスチャン、あるいはそうでない人のなかには、そのような生き方を求めている人もいる(ちなみにそういうことを考えたことがない人にとっては、この記事の内容は恐ろしくつまらないと思う)。
しかしながら、私たちは「人を愛せる人」になんてなれるのだろうか。


愛とはなんだろうか。イエスの言葉を引こう。
「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう」
「ただ、自分の敵を愛しなさい」。
聖書の求める〈愛〉は、決して生易しくない。
自分にとっての敵とは、すなわち自分が愛せない人のことだ。
敵は敵だから愛せないのであって、その相手を自分が愛せるようになるならば、その人はもはや敵ではないだろう。
私たちに要求されていることは、愛せない人を愛すること、あるいは(例えば大好きなあの人を)愛せない状態のときにこそ愛することなのである。
それでは結局イエスは、私たちの能力では不可能なことを求めているのだろうか。


ここで敢えて言いたい。答えはイエスである。
前述したことに従って、愛とは「自分の愛せない人を愛すること」だとしよう。そうするならば、私はどこまでいっても「人を愛せる人」には決してなれない。
なぜなら、単純化して言えば、たとえある人を「愛せる」ようになったとしても、その時点でその人への愛は「愛せない人を愛する」愛ではなくなっているからだ(なぜならその相手はもうすでに自分が「愛せる」人だから)。

…ややこしい。シンプルなかたちで考えれば分かりやすいだろうか。
僕たちは、嫌いだった人(仮にAさんとしよう)のことを好きになることがありえる。
それは、「愛せない人を愛する」ようになったと呼べるかもしれない。
だけど考えてみると、Aさんが自分の友となった時点で、そのAさんへの「愛」は「自分の敵」への愛ではなくなる。
求められているのは、自分の敵への愛、言い換えれば自分が愛せない人への愛であるにも関わらず。

もっとも、僕たちにとって敵というほどの人はなかなかいないかもしれない。
しかしながら、私たちはいろんな状況において友人や知り合いのことを「敵」(=愛せない人)と見なしているのではないだろうか。
「あいつありえねーわ」と相手のことを否定する言葉を吐き、言葉と態度で自分の不快さをアピールしたり、距離を取ったりする。
あるいは、腹の中では相手への憎しみを抱きつつ、何食わぬ顔でやり過ごすこともある。
家族、友人、恋人etc...親しい人に好意的に接することのできない経験を誰しも持っている。
いずれにせよ、私たちはこのようなとき、相手を愛することに究極的な難しさを感じるだろう。
しかし聖書で求められているのは、自分が愛せない状況での愛なのだ。



愛の本質が「敵を愛する」こと、言い換えれば「自分を超え出て愛すること」にあるとするならば、愛が可能になるとき、それは愛が不可能になるときである。
なぜなら、私が「愛せない」という自分を超え出て他者を愛せるようになったとき、その〈愛〉はもはや「自分が実践できる愛」に変わっている。
つまり、相手はもはや「敵」ではなく、「愛せない状況」もそこにはなくなっている。
しかしながら残念なことに、私にとっての「愛せない状況」は別の場所にいくらでも転がっている。
瞬間的に実践した〈愛〉の直後には、私はまた「愛せない自分」に戻ってしまうのだ。

結果、私はどこまでいっても、「人を愛せる人」=「敵を愛せる人」には決してなれない。
もし仮に、「人を愛せる人」がいるとするならば、それは絶えず自らの愛せないという状況において「自分を超え出て愛すること」を実践し続けられる人だ。
それは恐らく神の領分である。
私たち人間に可能なのは、ときおり瞬間的に他者を愛することへと抜け出ることができるだけなのだろう。それもきっと、自分の力ではない。


《結論》
ときに私たちは、「人を愛せる人になる」ことを求める。優しい人になりたいと願う。
私たちは、いわゆる「愛のある人」「優しい人」にはなれるかもしれない。
だけど根本的に重要なのは、私たちが人を愛せない状況があるということであり、そのようななかでこそ〈愛〉が問われるということである。
どこかに「愛する人」というゴールがあって、そのレベルまで達したら安心、ということではないのだ。
私たちは、どこまで「成長」しても「愛する人」の位置には留まり続けられない。絶えず、「愛せない人」へと転落していっている。

私たちは、愛の性質を自分の所有物として獲得することは出来ず、愛へと繋がる回路をその都度開き続けることしかできないのである。
それは「他者を愛する人になる」ことではなく、「相手を愛さなくていい言い訳を探す自分」を正当化することをやめ、天から贈られてくる愛への招きに応え続けていくことなのではないだろうか。

レヴュー「ひとりごと」


BUMP OF CHICKENが好きだ。そのなかでも「ひとりごと」という曲が大好きだ。心から名曲だと思う。今日はこの歌詞の紹介を。


「優しさ」ってなんだと思う?という問いかけをテーマとしてこの曲は進んでいく。
人に優しくありたいのに、自分の心を覗いてみるとそこにはドロドロした自己中心的な思いばかりうずまいている。
「ありがとう」を言ってもらえないことに微妙な心持ちになったり、
見返り求めているわけじゃないはずなのに、別の場で相手から何かしてもらうことを期待している自分に出遇ったり。
純粋に「相手のために」何かをしたいと思っているはずなのに、そんな優しい人に自分は到底なれないと気付く。
「優しくなんかない そうなりたい なりかたが解らない」。
これは、優しくなりたい想いと自分のどうしようもない醜さに葛藤する心の叫びだ。


自分のなかに優しさのかけらもないことに気付かされながら、僕らはもう一つのことに気付かされる。
それは、僕は一つも相手に純粋な優しさを贈ることができていないのにもかかわらず、「相手から」これまでたくさんの優しさを受け取ってきたということ。
じゃあ相手が特別優しい人だということだろうか。
いやそれもきっと違う。
僕が「君から」受け取った優しさは、「君の知らないうちに 君からもらった」ものなのだから。

じゃあ、「僕」からでも「君」からでもないとして、優しさ=愛はどこから来るのだろうか。
それはきっと、〈気付いたらそこにある〉もの。
親しい友人同士がただただ楽しい時間を共に過ごすとき、彼らは互いに「相手に優しくしよう」と思っているわけではない。
僕自身、優しさなんてこれっぽっちもない自分に出遇うことがよくある。
だけど不思議なことに、一緒に安心して時間を過ごせる大切な人が何人もいる。
全然意図してないところで、「ありがとう」と言われることがある。
優しさってきっと、相手との関係のただなかに、僕らの能力や徳性を超えてどこかから与えられるプレゼント。神様から贈られためぐみ。


ではこの曲は、意志をもって他人に優しくしようとする決意を「無駄だよ」と言っている曲なのだろうか。
いや、断じて違う。
本気で他者を愛することに向き合うときに、人は愛のない自分に出遇う。
そして優しさのかけらもないそんな自分を認めるときに、こんな自分にもかかわらず贈られている「君」とのこの愛の関係が、どれほどまで感謝に値するかを味わうのだろう。
愛される資格のない僕になぜか贈られている、この愛の関係という奇跡。
僕たちと友人や大切な人との間で結ばれる関係で大事なのは、「自分には愛があるぜ」という自分の能力への信頼でも、「愛そう⇨愛せない」の負のスパイラルでもない。
なによりも、すでにもう与えられているこの驚くべき関係に対する感謝こそが大切なのだと思う。
この曲は、僕たちの関係性のただなかに贈られている奇跡に気付かせてくれる曲なのではないだろうか。


____________

原曲こちら。

BUMP OF CHICKEN - ひとりごと
作詞:藤原基央
作曲:藤原基央

ねぇ 優しさってなんだと思う 僕少し解ってきたよ
きっとさ 君に渡そうとしたら 粉々になるよ
ねぇ 君のために生きたって 僕のためになっちゃうんだ
本当さ 僕が笑いたくて 君を笑わせてるだけなんだ ごめんね

人に良く思われたいだけ 僕は僕を押し付けるだけ
優しくなんかない そうなりたい なりかたが解らない

ねぇ 心の中に無いよ 僕のためのものしかないよ
そうじゃないものを 渡したいけど 渡したい僕がいる
ねぇ 優しさってなんだと思う さっきより解ってきたよ
きっとさ 君の知らないうちに 君からもらったよ 覚えはないでしょう

皆 良く思われたいだけ 自分自身を売り込むだけ
優しくなんかない そうなりたい 僕が一番ひどい

頭ヘンになったかも いやいや至ってまともだよ
望みは望まない事 僕が知らないうちに 君のためになれる事

あぁ うん 言われなくたって気付いてる 僕ちょっと考えすぎ
ありがとう 笑ってくれたおかげで 僕も笑える

ねぇ 優しさって知ってるんだ 渡せないのにもらえたんだ
きっとさ 人と人との心の外の中だけに 在るんだ
ひとりごと

君に良く思われたいだけ 僕は僕を押し付けるだけ
優しくなんかない なれやしない なりたいと思わない

一人では無理な事だから 誰かとの間に在るから
どちらのものでもない 名前のない それだけに出会いたい

ねぇ 優しさってなんだと思う もう考えなくたっていいや
本当さ 僕ら知らないうちに 僕らで作ったよ
二人で出会ったよ

2012年2月6日月曜日

ブログ始めました。

こんばんは。sho_onthebibleです。
東京に暮らす大学院生です。
クリスチャンです。
教育哲学を学んでいます。

そんなこんなで(?)ブログを開設しましたが、僕はブログきちんと更新するとかすごく苦手なタイプです。
ぶっちゃけ面倒です←
開設早々いきなりなにを言ってるんだという話ですね。すません。

まぁなぜブログ始めようと思ったか、という話です。
最近自分の口下手っぷりがどうしようもないなーっと思っているんですよ。
伝えたいことが伝わらない。
でもどうしようもないからと簡単に諦めるわけにもいかない。
諦めたら、ただでさえ不十分な言語能力がさらに退化していってしまうじゃないですか。
教育というものを考えたいと思っているやつがこんなんじゃだめだ!と一念発起し、人に伝わる言葉を磨こうと思わされたわけです。
そういうわけでのブログ開設、です。

僕はごちゃごちゃいろいろ考えるタイプなのですが、とくにそういう「ごちゃごちゃ」を自分だけの言葉から伝わる言葉に翻訳できるようになりたいなぁと思ってます。
読んでて楽しい系や日常綴る系にはならないと思いますが、興味がある方は読んでいって下さい。

基本、週1で更新していきます!(と宣言することで自分にプレッシャーかけるタイプです)
それではそれでは。