あはははは、わっはっは、ふふふ、ひーひっひっひ、くすくす、いしししし、へへへっ、ぐはは、ほーほっほっほ、ひゃっひゃっひゃっ、くくくっ、ぐへへへ、でゅふふ、あはっ、でへへ。
大丈夫。
頭おかしくなってはいません。
「ことば」の科目を担当している教員として、英語や日本語について考える機会があるのですが、最近両言語の違いが面白いので、ちょいとシェアさせていただきます。
言語学の世界でよく言及されることですが、日本語にはオノマトペが非常に多いと言われます。
オノマトペは、「わんわん」「げこげこ」「ざあざあ」「どんがらがっしゃん」などの擬音語と、「くるくる」「こっそり」「しょぼーん」といった擬態語からなっています。
注目したいのは、日本語は他の言語(特に欧米圏の言語)と比べ、そうした「言語音には変換できない微妙なニュアンスをもった音声や状況を、言語音で表現する」文化をもった言語である、ということです。
オノマトペに関しては、日本語は世界一といってもいいほどの語彙の豊かさを誇るそうなのです。
わお。
そこで冒頭の「あはははは、わっはっは(……)」に戻ります。
笑い声もオノマトペの一種、擬音語です。
そして日本語では、非常に多様な「笑い声」のバリエーションがあります(ここで挙げたのすら、その一部に過ぎません)。
何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、他の言語ではなかなか同じようにはいかない。
例えば、英語にももちろん「笑い声」を表すオノマトペはありますが、数は多くありません。おそらく数種類といったところです(haha, heheなど。サンタ限定で「ho ho ho」もあるか)。
あるいは独特の笑い声を、敢えてアルファベットで表すことは文章表現上不可能ではないのでしょうが、それは特殊な修辞的表現であって、日常的な自然さはもちません。
しかし日本人は、日頃からオノマトペを非常に豊かに使う。
文字面においてはとても似通った「へへへ」と「ぐへへ」と「でへへ」が、全く異なったニュアンスを持っていることを、日本語を母国語とする話者は瞬時に感じ取ることができます。
冒頭に挙げた笑い声15種類の全てが、それぞれ固有のニュアンスを表していることを感知し言語音で表すことができる。
これはものすごいことです。
日本語学習者にとっては、迷惑極まりない言語特性かもしれませんが…。
もちろん、英語にも多様な表現で、様々な笑いを言い表わすことが可能です。
ただ、smileもlaughもgrinもgiggleもchuckleもguffawもsimperも、あるいはその他の熟語表現も、その笑い方を「説明」したものに過ぎません。
たとえばguffawだったら、その語は「大声でばか笑いする」という笑い方を意味するように。
一方、オノマトペに関しては全く事情が違います。
「ふふふふふ」という語は、笑い「方」の「説明」ではありません。
そうではなく、本物の笑い「声」を模した再現表現と言えそうです。
「意味」の解説ではなく、「音」の再生。
ですから、オノマトペが多様な日本語は、状況を説明的に記述するのとは異なった、場の空気をそのまま共有するような言語表現を数多く有していると言えそうです。
ことは、笑い声に限りません。
日本では漫画文化が盛んですが、オノマトペは漫画に欠かせません。
カイジの「ざわ…ざわ…」や、ONE PIECEの「ドンッ!!!」などはあまりにも有名(?)。
ともかく、たとえばペットボトルの蓋を空ける場面を考えてみます。
日本の漫画では、「クルックルッ」「キュッキュッ」「グッ」「グイー」「グルグル」「ギュッ」「キュルキュル」「クルリ」といった何通りもの言葉を、状況に応じてそのシーンに添えることができます。
同じ場面を英語にしたら?
以前そうした漫画のシーンに、「twist, twist」という語を充てている英訳を見たことがあります。
twist, twistって!笑
思わず吹き出してしまった。
気になって同僚のネイティブの先生に聞いてみたのですが、「twist」はその先生としても多少違和感がある表現とのこと。
じゃあ何と表現するのかと聞いたら、「……」。返事に困っていました。
よくよく聞いてみると、対応する言葉がないそうです(twistと訳した人も苦肉の策だったのかもしれません)。
日本語母国者としては一瞬耳を疑いそうになりますが、英語のみを話す人にとっては、蓋を空ける音が言語音としては一切変換されない。
これはつまり、蓋が空けられる際に発せられるノイズは耳に入っても、それが音としての輪郭を持たぬ雑音としてしか認知されないということです。
twistは多少なりとも特殊な例なのかもしれませんが、一方で、カートゥーンの背景に添えられる英単語には「定番」のものもあります。
たとえば、ドアを叩く「knock, knock」や、水しぶきがあがるシーンでの「splash!」など。
どうやら英語母国語話者の耳には、ドアを叩けばknock、水しぶきがあがればsplashと聞こえるらしい。
「ドンドン」や「バッシャーン」に慣れ親しんだ日本人の耳には、このことさえも奇異に聞こえるかもしれませんが、ここでは、単に英語と日本語で表記される言語音が違うということ以上の問題が含まれています。
「ドンドン」と「knock,
knock」、「splash!」と「バッシャーン!」には決定的な違いがある。
それは、「knock」や「splash」が、「叩く」や「水を撥ね散らす」といった動詞的意味合いと不可分に結びついている、ということです。
これはつまり、英語においては、発生した音声だけではなく「その音を生じせしめたアクションが何であるか」という点もまた、その音声の聞こえ方を決定するということです。
擬音「knock」は、純粋に「knock」という音が聞こえるから「knock」なのではなく、その特有の音が「叩く動作」を聞き手に連想させるから「knock」と聞こえる、ということです(たぶん)。
たとえば、同じ「叩く」でも、「てのひらで軽く叩く」時に聞こえてくる音は「tap, tap」と表現されます。
擬音「knock」と擬音「tap」を区別するものには、音声そのものだけではなく、こぶしを握った状態で叩く(knock)か、てのひらなどで軽く叩く(tap)か、という動作の違いが含まれる。
ですから英語話者は、たとえ物理的な音は酷似していても、動作の違いによって聞こえる音声を異なったものとして認知するということです。
これは、「ドンドン」や「バッシャーン」のような、出来事から聞こえてくる音声をそのまま再現しようとする表現とは、本質を異にしているように思います。
いろいろ書きましたが、要するに、注目したいのは次の点です。
英語においては、擬音さえも説明的な語義をもつ単語によって表現されること。そしてそれとは対照的に、日本語においては、ひとまず「意味」とは切り離された「音」としてオノマトペが表現されること。
もちろん例外もありましょうが、とりあえずそのように捉えておくことにします。
だんだんと、オノマトペを多く含む日本語の特殊性が見えてきたかも?
ちなみに、オノマトペは、ここまで見てきた「擬音語」だけでなく「擬態語」も含む語でした。
結論めいたものに移る前に、「擬態語」の例も見てみたいと思います。
「髪の毛ごわごわする」
「しっくりきた」
「この部屋じとじとしている」
「このネタ、じわじわくる」
「赤ちゃんにそうっとふれる」
「もやもやすんなー」
「しゃんとしてよね」
「あんたふわふわしすぎ」
「しょぼーん(´・ω・`)」
これらは擬態語を用いているわけですが、このすべて、説明的な表現とは呼びづらい。
オノマトペですから、理屈に基づいた「意味」ではなく、状況や動作から感じ取られる「音(的なもの)」に焦点が当たっている。
ですから必然、こうした言葉は、「意味はなんとなく分かる」という類いの言語表現になります。
もちろん説明を与えることは不可能ではありませんが、別の言葉で解説した瞬間に、その語のニュアンスは多少なりとも変質してしまいます。
結局のところ、その語義の正確なところは、感じ取ってもらうしかない。
「すべすべ」と「つるつる」の定義の違いを説明しろと言われても、困ってしまうわけです。
ですから、オノマトペを含む文章を発する日本語話者は、メッセージを受けとる人に対する「このニュアンス、分かってくれるよね?」という信憑を前提にしています。
言語共同体のメンバーに共有されている身体感覚に訴える表現、とでも言えばいいでしょうか。
ここまで考えると、オノマトペが西欧の言語には比較的少なく、日本語においては豊かに発展してきたという事の消息が、少しつかめるような気がします。
多文化が頻繁に入り交じり合うなかで発展を遂げてきた西洋においては、全く異なる言語感覚をもった集団同士が衝突する機会が少なくなかった。
そのような環境では、「このニュアンス、分かってくれるよね?」などといった甘っちょろいことを言ってはいられない。
話の対象になっている事物について、どんな文化をバックグラウンドに持つ者が聞いても意味のブレが少ない言葉を選択しなければ、意思の疎通が図れない。
必然、そうした言語で必要とされるのは、曖昧さをできるだけ排除した客観的・説明的な言葉遣いになります。
それとは逆に、島国で比較的多文化との関わりが少なかった日本では、言語は共同体の同質性を確認し強化するという機能もはたしてきた(のかもしれない)。
一緒に生活していなければ理解しようのない、身体感覚に根ざしたことばを共有することによって、同一共同体内部の結束力と調和とが保たれてきた。とか?
…勢い余って憶測で適当なことを書いてしまった(いやはじめからずっと憶測かつ適当なのだが)。
専門家の方から怒られてしまいそうですが、もしかすると真実にかすってないでもないかもしれないので、続けます。
ロラン・バルトというフランス人の思想家がいますが、彼はヨーロッパの言語のことを、対象を欲情する言語だと述べています。
「欲情」というタームで表されているのは、対象を説明しつくし、隙間なく意味で充満させ、語義を完全に露わにさせる欧言語の性質、だそうです。
曝露され裸にされた言葉は、奥に秘めていた意味の広がりを失ってしまう。
そして、バルトがそうしたヨーロッパ言語の対極に位置する言語表現として見出したのが、日本の俳句でした。
「古池や かわず飛び込む…」の一句を、「古池っていうのはね…」と解説し特定の意味で限定し切ってしまったら、芭蕉が表現した一句の味わいは一気に消し飛んでしまいます。
あの句は、「古池や かわず飛び込む 水の音」の17音で完結しているわけです。それ以上の言葉は、多くの場合むしろ邪魔にしかならない。
俳句という表現形態だけに限らず、日本語には、言葉を惜しむ文化、敢えて説明することをしない文化があるように思います。
おそらく、日本において多様なオノマトペが存在することも、そうした言語文化と深く関係しているのでしょう。
世界各地で話されているそれぞれの言語に、優劣をつけられるものではありません。
ただそれでも、各言語に特有の「得意分野」は存在しそうな気がします。
「日本人は論理的な説明が下手だ」という主張がたまに聞かれますが、その逆に日本語は、「説明的な言語では表しづらい微妙な感性を言葉にのせて発すること」を得意としているのかもしれません。
もちろんそこには功罪あるでしょうが。
26歳になりました。
生きていると、言葉で表現可能なものより、言葉では言い表せないものの方が、実はものすごく大事だということに気付くことがあります。
けれど、そうした事柄を頑張って説明しようとすればするほど、そうした「言葉の向こう側にあるもの」には届かなかったりする。
はっきりとした説明を与えず、意味の空白を残すからこそ、響く表現もあるのでしょう。
たまに焦れったく思うこともありますが、私はやっぱり日本語が好きです。
(私の母国語びいきは否めません。ちなみに英語は、まだ仲良くなりはじめです)
0 件のコメント:
コメントを投稿