きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)
2014年1月1日水曜日
みかん
好きな食べ物は何かと聞かれたら、「みかんです」と答えることにしている。
答える「ことにしている」と書いたのは、僕にとって、大抵の食べ物は大好物だからである。
決めておかないと、何十もの食べ物リストを相手に聞かせることになってしまう。
ともあれ、リストのなかで堂々の第一位を飾るのが、みかんなのだ。
冬は素敵な季節だ。
みかんが美味しい。雪景色とみかんはよく似合う。
11月下旬に、母上から箱みかんがおくられてきた。いい親である。
勤務先の学校でも注文用紙が配られたので注文した。
そんなこんなで、ここ一ヶ月のあいだだけで、もうすぐ三箱目が空になる。
もちろん食後のデザートとして食べるだけではない。
朝も昼も夜も関係ない。何個でも行ける。
そんなわけで、今年の冬はすっかり空腹というものを感じなくなった。
寝起きにもお腹にはみかんの感覚がある(これは、25になって消化能力が落ちただけのことかもしれない)。
幸せなことこのうえない。
そう、私はみかんを愛しているのだ。
はたしてみかんの何がこんなにも私を魅了するのか。
いくら「みかん好き」と自己紹介しても、誰もそんなことを聞き返してはくれないので、自分で考えてみることにした。
真っ先に思いつくのは、「食べやすさ」である。
この「食べやすさ」という言葉は、「気軽に食べられる」という意味である。
親しい知り合いのなかに、みかんは皮をむくのが面倒くさいから嫌いという人がいるが(しかも二人も!)、僕には全くもって信じられない。
ちなみにそのうちの一人は、りんごは好きなのだそうだ。剥かれて出てくるから、というのがその理由である。
このような意見は例外(論外?)として、みかんは「食べやすさ」においてかなりの優秀さを誇るように思う。
少なくともメジャーな果物のなかでは間違いなくトップである。
たとえばりんご。
りんごを切って食べるには、ナイフが必要である。はいその時点でアウト。
いや私は丸かじり派だ!という人がいるかもしれない。
しかし日本人の心情的には、アメリカ人のようにファーストバイトの場所だけを袖でキュキュッと拭いて食べる…というわけにはなかなかいかない(というかあれ、ほんとなんの意味があるのだろう。謎である)。
せめて一回水で洗いたくなるのではないだろうか。
百歩譲って私が、そのまま丸かじりOK論者だとしても、日本のりんごは特に一個体が大きい。
これはもう致命的である。
残してしまうリスクとお腹の具合とを考えたら、手軽に食べることはできない。
上にあげた理由から、なし・すいか・めろん・もも・ぱいなっぷる達多くの果物が脱落する(すいかやめろん、また次に出てくるいちごは厳密には果物ではないが、細かいことはいいっこなしとしたい)。
では、小さい果物はどうか。
たとえばさくらんぼやいちご。一見サイズ的にも「食べやすさ」は申し分ないように思える。
しかしである。
いちごは、手が汚れてしまう。何か作業をしながら…というわけにはなかなかいかない。
そしてさくらんぼ。奴には種がある。
口に含んださくらんぼ一個一箇から、いちいち種を出すというのは、一手間である。
何の心理的的負荷もかけずに食べたいとき、この一手間が意外に大きい。
断っておくが、私は何も自分が面倒くさがりだからこんなことを言っているのではない。
私は、りんごもなしもすいかもめろんももももぱいなっぷるもいちごもさくらんぼも、大いに喜んで食べる。
ただ単に、今は「いかに気軽に食べれるか」を検討している、それだけのことである。
さくらんぼといちごの話に戻そう。
種無しさくらんぼだってある!と主張される方もいるかもしれない。
へたを持てばいちごだって手は汚れない!というテクニックの持ち主もいるかもしれない。
しかしたとえそれらの課題がクリアされたとしても、これらの果物から「食べやすさ」を奪っている真の原因は、次の二つにある。
一つ目は、値段。
量比で考えた場合、いちごもさくらんぼも決して安くはない。
一個のサイズが小さいため、お腹に満足感を覚えるまで食べること、それも毎日気軽に食べ続けることは、なかなかできない。
箱りんご・箱みかんは存在しても、箱さくらんぼ・箱いちごなどというものは終ぞ聞いたことがない。
二つ目は、「口をつける部分が、保存状態においても外界に曝されている」という、動かし難い両果実固有の特性である。
要するに、「皮」がない。
ここから帰結するのは、まず「水洗いの必要」。そして食べる際の「皿の必要」である。
そして「皮」という保護膜がないということは、傷みやすいということを意味する。彼らの保存場所は基本的に冷蔵庫に限られる。
どこかに置きっぱなしにしたり、何個かさっと掴んでぽいとテーブルにおいておく、といったことができない(している人はいるのかもしれないけど)。
そう。みかんの驚異的なまでの「食べやすさ」(気軽に食べれる様)の最大の要因は、みかん特有の皮の性質にある。
りんごやすいかにとっては「食べやすさ」の障壁となってしまう皮が、みかんではほとんど問題にならない!(注・一部の人を除く)
まるでみかんの皮は、人間の手によって剥かれるために神が創造されたかのようなデザインである。見事である。
さらにその皮は、みかんの「保存性」と「可置性」(どこにでも置けるという性質。そんな言葉ないけど)の両方を可能にしている。
そしていざ食べるときには、外皮自体が、実を乗せおく皿へと早変わりするのである。
みかん、すごい。
このような機能性を兼ね備えた皮を持つ果物は、みかんの他にはいない。
…そう言い切りたいところなのだが、実は、いる。
ばななである。
確かに、ばばなの外皮はみかんと同様に優れている。
剥かれていない部分を持ち手にしつつ、剥かれたエリアを口に運ぶことができるという、バナナ特有の小技もなかなかにくい。
口にはいるサイズの丁度良さを考慮にいれても、かなりいい線をいっている。
さくらんぼやいちごで問題となったコストについて考えても、ばななは申し分ない。つまり安い。
しかし、それでも私はみかんに軍配をあげたい。
なぜか。
みかんとばなな。後味の違いや、剥き終わった後の皮の清潔感の違いを挙げてもいいのだが、それらはこの際置いておこう。
注目したいのは、やはり皮である。
驚くべきことに、みかんの皮は外皮だけでは終わらない。
みかんは外側の皮を剥くと、一口サイズの実が十個前後顔を出す。
そしてその一つ一つの実が、薄皮というまた別の皮で覆われているのである。
まさに皮in皮。
みかんの果実は、二重の皮構造によって保護されているのである。
まるで袋を空けてもなお個包装されているチョコレート菓子のように。
しかもその個包装のつつみは、食べることができるのだ!
これこそみかん固有の特性である。
この構造によって大きなメリットがうまれる。二つ挙げたい。
第一に、みかんは外皮を剥いてなお、一時的な保存が可能である。
ばななは、一度で食べきらねばならない。
しかしみかんの場合、一部を食べつつ、残りをそのまましばらく放置しておくという芸当が可能になる。
また第二に、「他者と分け合うこと」が断然容易になる。
人は必ずしも自分一人で食べ物を口にするわけではない。
たとえば、二人の人間が一緒にいる場面を想像してみよう。
残りが一個しかなかったとき、みかんであれば半分ずつ食べることに何の問題もないが、ばななであれば同じようにはいかない。
ばななの場合、分けるときに多少の抵抗感が顔を見せるだろう。少なくとも片方は、直接手づかみする必要がでてくるからだ(これではせっかく持ち手の役割を果たしていた皮の意味がなくなってしまう!)。
「杯を交わす」「同じ釜の飯を食う」という言葉があるように、人は古来から何かを分け合って口にすることに特別な価値を置いてきた。
分け合うことが容易であるというみかんの特性は、「他の人がいるなかで自分がみかんを食べ始める」という心理的な抵抗を軽減させてくれる。
そして何より、みかんは、誰かと共に食べる喜びをもたらしてくれるのである。
ここまで、「食べやすさ」という視点からみかんのもつ魅力を考えてきた。
もちろん、みかんの魅力はそれだけではない。
「食べやすさ」は、みかんという巨大な氷山の一角に過ぎない。
しかし、このトピックだけで結構な長さになってしまった。正直書いてる本人も驚きである。
果たして全文をちゃんと読む気になった人はどれだけいるのだろうか。
ともあれ、今日はここまでとしたい。
冬です。みなさん、良きみかんライフをお過ごしください。
Happy New Year
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