きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2017年8月22日火曜日

「修行」するイエス(その1)



イエスは、修行した。
その公生涯のはじめに、死海のほど近く「ユダの荒野」と呼ばれる場所で、四十日四十夜、絶食状態で生活をしたと語られている。
有名な、「荒野の誘惑」というやつだ。
厳密にはイエスのしたことを「修行」という言葉で説明していいのかはよくわからないけれど、一般的な語彙のなかではこれが一番実態に近いと思う。
便宜的に、ひとまずこの「修行」という語を使わせてもらう。

話を戻す。
イエスは、修行した。
もしかするとこれは、驚くべきことなのかもしれない。
「神の子」イエスでさえ、修行をしたということだ。
イエスには、修行が必要だったのだ。
何のために?
神に従って生きるために、だ。
もう少しだけ一般的な言葉で言うなら、真理の前で自分に恥じない生き方をするためだ。

しかし一方で、私は修行をしない。
凡人である私が、修行をしない。
私は「神を信じている」ことを自称している。
けれど言われてみれば、神に従って生きるために必要な修行があるとも、そうした修行をしようとも考えたことがなかった。
省みると、これってすごくおかしな話なのかもしれない。
喩えて言うなら、「サッカー選手になりたい」と思っている太郎君が、才能もセンスもないのに、練習は全然する気はない、というようなものだ。

あれこれ思い巡らすなかで、自然と一つの本が頭に浮かんできた。
精神分析学者フロムの書いた『愛するということ』という本。名著である。
この本の要点は、たぶん、「愛は技術である」ということに尽きる。
ここで「技術」と訳されている語は、いわゆるテクニックやスキルのことではない。原語では「アート art」となっている(中村はこの語を、「職人技」のようなイメージで捉えている)。
説明のため、本の内容を簡単に「中村訳」してみたい。
「愛ってのは自然に湧いてくるもんじゃないから、運命の相手を見つけたら相手を愛せるとか、多くの現代人は勘違いも甚だしい」。「愛は習練を必要とする技法(アート)なんだから、自分自身を訓練しないとできるようになるはずないよね」。
乱暴な要約だが、本当にこんな内容。
読んでいてぐさぐさと心に刺さる。

思うに、「愛」に限らず、「神を信じ生きる」という点においても、僕たちにはある種の「習練」が必要なんじゃないのだろうか。
ともすると僕らは、信仰は「心のあり方」だから、訓練なんぞは必要ない、と考えがちになる。
けれど実際よく考えると、実生活とは無縁のところに「心」があるわけじゃないんだ。
「心のあり方」は、日々の生活の有り様と密接に関わっている。
当たり前のことだ。

きっとだから、イエスは修行をしたのだ。
もちろんイエスだけではない。
たとえばキリスト教の伝統を振り返って考えれば、修道院が、特別な習練の場として用いられてきたことが想起される。


しかし身もふたもない言い方だが、正直なところ、僕は「修行」なんぞはしたくない。
修道院に入るなんてことも今の自分にはイメージはできない(そもそも結婚してしまった)。
定形化されたスキルトレーニングのような「弟子訓練」にも、違和感を覚える。
というかそもそも一体、どんな習練をしたらいいというのだろう。

そんな疑問が湧いてきた最近のこと。
ちょいと腰を据えて、「修行するイエス」について学んでみようと思う。
イエスがした「修行」とはどのようなものだったのだろうか。
その修行のなかで、イエスは何を体得していったのだろうか。

もしかすると、今の私にとって必要な「習練」の有り様について、何かヒントが掴めるかもしれない。

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