きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2012年4月9日月曜日

レヴュー『余は如何にして基督信徒になりし乎』

2012/03/31
☆☆☆★

 内村鑑三がクリスチャンになって、信仰の確信を持つに至るまでを自伝的に描いた本(ちなみに原著は英語で書かれている)。無教会主義と呼ばれる彼の信仰がどのように形成されていったのかがよく分かる本。すごく単純化して言えば、内村の思想の核は「大事なのは外形じゃなくて本質なんだよ!!」ということに尽きるのだと思う。「教会」も「牧師」も「聖礼典」も本質ではない、と言ってしまうところに彼の信仰理解と大胆さが現れている。
 本当に大事なことそのもの(本質、真理)は、僕たちが形として残しておくことは出来ない。瞳に映るのは、外側の形に宿った仮の姿でしかない。

 僕たちは、本質を掴んでいる気でいないか。僕たちは、真理を手にしていると思っていないか。なんとおこがましいんだろう。真理は神の側に属している。この世界のどこか、あるいはこの世界を超えたどこかにもし真理というものが存在するなら、それは人間には掴むことの出来ないものだ。それは、瞬間的に垣間見え、そのほんの一部を私たちが味わうことができるだけ。少なくとも、聖書の指し示している真理は、僕たちが完全に理解して所有出来る類いのものではない。絶対に違う。
 ユダヤ系哲学者マルティン・ブーバーは、神の言葉を「流星」に例えた。私たちが、地表に落ちてくる流星の炎を目撃したとしても、その落下した隕石を取り上げて「これが流星だ」と言うことは出来ない。それはもはや燃え尽きて、「ただの」岩石になっている。私たちは、残った岩石にではなく、それが煌めいて燃えていたというリアリティに、何度でも目を向けなければいけないだろう。
 真理はたえず、僕たちの手からすべり落ちていく。垣間見た「真理」と、言いようもない体験を、事後的にどんなに言葉にしたとしても、残ったのは言葉だけだ。だから、僕らは「流星」に語られ続けなければならない。自分のうちに真理は存在しないのだから。

3 件のコメント:

  1. そうだねえ。
    教会は、やっぱり本質だろうよ、とはおもうけどね。

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  2. コメントありがとうです。
    教会という言葉が指すものが、
    建物、あるいは「宗教組織」としての「教会」なのか、
    キリストにつらなる信じる人びとの交わりとしての〈教会〉(エクレーシア)なのか、
    っていうことがポイントなのかな、と僕は思ってます。

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