きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2013年9月28日土曜日

「風立ちぬ」が分からなかった


この夏、「風立ちぬ」を観た。
鑑賞後の感想は、「うーむ…」というものだった。
映画がつまらなかったという「うーむ」ではない。
思わず首をひねるという意味での「うーむ」である。
圧倒的なまでに生き生きとした大空や草原の色彩感覚、モブキャラ一人一人の裏側に彼らそれぞれの人生を感じさせる繊細な人物描写など、アニメーションのクオリティの高さは圧巻だった。
にも関わらず、本作のメインメッセージが何なのか、さっぱり分からなかったのだ。
この作品は一体何をわたしに語っているのだろう。
何か大事なことが描写されている、だけどそれが何なのか今の私にはことばにできない。そんな感覚を覚え、劇場の席に座ったままでしばし放心状態になってしまった。

言わずもがなであるが、「風立ちぬ」は巨匠宮崎駿の作品である。
できることなら「やっぱ駿パネェ!」と感動して帰りたかったし、できることなら「あのシーンのここがさぁ」と「分かっている人」ヅラをして語れるようになりたかった(だってその方がかっこいいじゃないですか)。
しかし全く言葉にならない。
その日わたしは、モヤモヤを抱えたまますごすごと帰路についたわけである。
恥ずかしいことである(と道中わたしは思った)。

数日後に大学院時代の友人と話している際、「風立ちぬ」の話になった。
彼はこの作品にいたく心動かされた様子で、熱っぽくその感動をシェアしてくれた。
僕には理解できなかったあの作品を、リアルな実感を持って味わえたらしい。羨ましい。
話を振られても歯切れの悪いリアクションしかできない自分が悔しかったのもあり(?)、わたしもことあるごとに自分が観たものをグルグル考えるようになった。
以下に、その過程で考えたことを記したい。
ネタバレも含むので、読まれる方には了承を願う次第である。



まず思い当たったことは、この「風立ちぬ」がウォッチャーフレンドリーな作品としては作られていない、ということだ。
観た人に対して「簡単には分かっている人ヅラをさせない作品」、と言い換えてもいい。
…これは、わたしにとってこの作品が理解不能だったからと、負け惜しみを言っているのではない(と思う。たぶん)。
ある種の「理解のし難さ」が、この作品にはある。

たとえば、戦闘機を製造していた堀越二郎の葛藤の「なさ」は、そういった「理解のし難さ」の一例だろう。
彼は「美しい飛行機が作りたい」との夢を追い、その結果、敵味方問わず無数のひとの命が失われた。
しかし作中、主人公がそのことに対して葛藤や反省を明確に表すシーンは存在しない。
いくら場面を追っても、二郎は戦闘機という大量殺戮兵器をただ真っ直ぐに作り続けるのである。

あるいは、喫煙のシーン然り。
堀越二郎は、結核に侵された最愛の妻、菜穂子のすぐ隣で喫煙をする。
これが、二郎が菜穂子のことを大切に思っていなかったとかいうことであれば、筋は通る。
しかし二郎は、菜穂子を愛していながら、その隣で喫煙したのである。
いやむしろそのシーンは、私の見るかぎり、菜穂子を愛しているからこそその隣で喫煙したようにさえ、描かれていた。
「二郎は我慢すればいいのに」。
愛する妻の命を縮めてまで喫煙する理由が、私にはよく理解ができなかった。

上の二つに関して、二郎のスタンスについて一応の解釈を試みることも不可能ではない。
たとえば、曰く
「二郎が、内面の葛藤を殊更に見せびらかさないという点にこそ、意味があるのだ。一切の言い訳がましさを捨てて、実直に自分の願いに向かっていく姿が美しいのである」とか、
「二郎と菜穂子には、延命よりも大事なものがあったのだ。たとえ命を縮めることになったとしても、二人で掛け替えのない時間を過ごしていたのだ」といった風に。
その他にも、あるいは21世紀を迎えた現代と当時との時代背景の違いを持ち出して説明できよう(「戦時下の特殊性」や「喫煙に対する意識の違い」といったような)。
いずれにせよ、確かに、それっぽい言葉で説明できなくはない。

しかし問題は、知的に解釈することと心で理解することは圧倒的に異なる、ということだ。
映画館にいる人のほとんどは、理性ではなく感覚で作品を鑑賞している。
果たして多くの鑑賞者にとって、二郎のスタンスは、心からの共感を呼ぶものだっただろうか?
私はYESとは言えないと思う。
もちろん「大いに共感した」という人がいることは間違いないが、同時に「どこかに違和感が残った」という人も多いのではないだろうか。
それほどに二郎は、どこか私たち凡人の理解の届かない、突き抜けた感性を持っているように思われてならない(それはもちろん、先に挙げた二つの例に限ったことではない)。
二郎のどこが非凡なのか。
おそらくそれは、彼の清々しいほどの「まっすぐさ」にこそ見出される。
彼の精神が属しているのは、言わば、清濁入り乱れる「俗世」ではなく、「美しいもの(飛行機、あるいは菜穂子)を愛する」という一元的な原理に根ざした「夢の世界」である。
二郎が菜穂子にプロポーズしたとき、彼は菜穂子が死の病(結核)に罹っていることを初めて告げられる。
しかしそこで、二郎は一瞬たりとも、とまどいや驚きの表情が浮かべることはなかった(!)。
「美しいものを愛する」という二郎の生きている一元的な世界において、「ひとなみの夫婦生活を送りたい」という願いや「相手が不治の病に罹っている」という事実は、何の障害にもならなかった。
その姿はほとんど超人的ですらある。
終始この調子で、二郎は迷わないし、葛藤もしない(ように見える)。
しかしそうした彼の一貫した態度は、彼の人物像から人格的な厚みを剥ぎ取っているように思われてならない。
二郎は本作のなかで、いわば「単色」の人物として描かれているのだ。
言い換えれば彼には、私たちに人間味を感じさせるような、人格の揺れやゆがみが見当たらないのである(おそらくは、この一見「単色」に思える彼の裏側に潜む、劇中は決して語られることのない人間的な彩りを感知できる鑑賞者は、二郎のことを好きになるのであろう。)。


宮崎監督自身、「主人公を魅力的な人物としては描いていない」といった主旨のことをどこかのインタビューで語っていた。
観る人が自己投影できるような、「魅力的」な主人公を、敢えて描かない。
これは、私の通常の娯楽映画イメージに照らせば、特異なことのように思える。
映画は通常、作り手が「こんなの見たいでしょ」に発信し、観る人が「そうそう、こういうの見たかったんだ」と受けとる、という構図で成り立っているのではないか。
であれば『風立ちぬ』は、そうした作り手と鑑賞者との共犯関係を崩す映画だと言える。
鑑賞者が理解し尽くすことのできない、非凡な生き様が、そこで描写されているからだ。
必然、私のような凡人は「置いてけぼり」にされる。
本作を見て感じた「うーむ」の感覚は、おそらくそういった「取り残された」感に由来するのであろう。

しかし私は、「置いてけぼり」をくらいながらも、この作品を「駄作」として切り捨てることはできなかった。
むしろ、一ミリもそんな気はおきなかった。
駄作と決め込むには、あまりにもこの作品は美しく、繊細で、そしてリアルだったからである。
『風立ちぬ』には、(宮崎駿の描く)「堀越二郎」の生き様が映し出された。
それは圧倒的なリアリティをもってわたしに迫ってきた。
わたしはそこで、超人的な生き方をした「堀越二郎」の半生を、言わば追体験させられたのである。
そしておそらく私は、彼の生きる姿に、「自分がまだ理解できないけれど、生きるうえで大切な何か」が含まれていることを感じ取ったのだと思われる。

だから、もし私が「この映画のメッセージは何か」と聞かれたら、「堀越二郎」の生き様そのもの、としか言うことができない(今のところ)。
もし私が受けとったものを、たとえば「夢に向かってまっすぐ生きること」などと単純化して表現してしまえば、作品を大きく裏切ることになる。
そのとたんに、『風立ちぬ』は陳腐な娯楽作品として私のうちに回収されてしまう。
しかし当然のことながら、宮崎駿の描く堀越二郎の半生は、そんな一言で片付けられるものではない。

確かに私は、この作品がいまだによく理解できない。
頭では解釈可能な箇所があっても、腑には落ちていない。
しかしながらそもそも、異物を呑みこもうとしたとき、臓腑に落ちて来ないのは当然のことであろう。
異物は異物である限り、容易には呑み込みがたいものである。
だからといって、たとえば私が、自分の理解できる範囲内で、「堀越二郎」の人生を切り刻み単純化し、喉越しよくなるよう加工したとしたらどうだろう。
あるいは私が、「この作品は私の感性合わない」といって、食べかけたその異物を吐き出してしまったら?
どちらにしても、私は「私以外のなにものか」と出会うチャンスを逃すことになる。
作品への「共感」も「拒絶」も、異物を異物として受け容れない点では同じことである。
「共感」も「拒絶」も、自分の立ち位置を変化させてはくれない。

たしかに、「腑に落ちない」状態は居心地がよくない。なんかムズムズする。できることならはやく解消したい。
しかし、その状態から逃げることは禁じられている。
なぜなら、「分からない(けど知りたい)」と思わせられた時点で、僕はこの『風立ちぬ』の前に膝をついてしまったからだ。
さらに、そこではもはや、作品を単なる娯楽対象として消費することも、「あぁこの作品は、〇〇だよね」と高見から見下ろすことも許されない。
自分は作品をあれこれする立場にはおらず、むしろその作品から何かを教わる側にいることを自覚してしまったからである。
「自分>作品」という通常の映画への態度から、「作品>自分」への逆転。

だからこそ、『風立ちぬ』は私にとって紛れもない傑作と言える(逆に言えば、私の理解の範囲内で収まる程度の作品が、傑作と呼ばれようはずがない)。
「その意味は私にはまだはっきりとは分からない、が、自分とは異なった生きる地平を追体験させられた」ということに、きっと大きな意味がある。
それによって、自分のテリトリーからなかなか出ようとしない私が、まだ自分の知らない世界に目を向け始めたのだから。


冒頭に、『風立ちぬ』を理解できなかった自分を恥ずかしく感じたくだりを書いた。
しかし今後は、「全然分からなかった!」ともう少し胸を張ってもいいのかもしれない(だってそのほうが他の人にいろいろ教えてもらえるわけで)。

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