弟ののど自慢とライブ見れたり、懐かしい先生にお会いできたり、よいときだった(ちなみに弟はのど自慢、校内二位だった笑)。
学園祭といえば、思い出すイベントの一つはディベートだ。
僕が通っていた時代、学園祭では各クラスから代表者4名が出て、トーナメント形式でディベートバトルを繰り広げていた。そして、24学級のうち一位は先生チームとのエキビションマッチに挑むのである。
議題は多岐に渡り、学園祭のメインステージで繰り広げられる議論の応酬は、なかなかに見応えあるものであったりする。議論のレベルが一般高校生のものである ことは差し引いて考えねばなるまいが。
かくいう私も、高校時代三年間ともそれに参加した(まぁ、好き好んでやりたがる人は少ない)。
久しぶりに、ディベートを見ていて、妙に懐かしい気分になった。
論理という武器をもって、他の人と本気で最後まで意見を闘わせようとする機会なんて、高校時代は滅多にない。
日常生活において、意見を対立させることそのものが、多少なりともストレスフルであるわけで。
自分の主張を押し通すことはそれはそれで面倒なことである。
授業でも、これは残念なことだが、ガチな意見のぶつけ合いが行われることなんてない。
勉強は基本一人でするもの。教えられたことを習得することが受験生・受験予備軍の学生に与えられた使命だ。
そこでは、自分で何かを発想したり、自分の意見を本気で主張する場はない。
ディベート的な議論の場は、年に一度のイベントへと回収され、非日常の出し物と化している。
とはいっても、僕はとりたてて「ディベート」を推奨したいわけではない。
むしろ、今回学園祭に参加して、「ディベート」廃止論者(?)に一歩近づいたように思っている。
なぜなら、ディベートは、対話の作法を全く無視しているように思われるからである。
正当化すべき答えがまず始めにあって、自分の立場を変えることがルール違反とされるディベートにおいては、相手の意見は無視されるか、低く見積もられるか、あるいは持論に取り込まれるかしかない。
そこでは、他者の意見から学ぶということは起こらない。
そして自己正当化が目的となって議論が進むとき、人は手段を選ばなくなる。
強圧的に相手に詰め寄り、相手の言葉尻を捉え、話をすり替え、そして呆れたことに、それを自分では至極真っ当な意見を主張しているつもりで堂々とやってのけるのである(日常で考えても、身に覚えがあり過ぎる)。
ディベートが、勝ち負けを至上目的とするとすれば、それは、やる人・観る人のうちで「話し合いとは、自分の意見をいかに正当化するかだ」という過った意識を植え付けないだろうか。
教育は、それとは異なる対話の可能性を子ども達に開いているだろうか。
本気で心を割って自分の意見を述べることと、相手に聴き学び自分の意見を柔軟に変えていくことは、どうしたら両立するだろうか。
「ディベートバトル」は非日常かもしれないが、日常のなかに、そのような機会はたくさん転がっているとも思われるわけで。
0 件のコメント:
コメントを投稿