昔は、「落ちこぼれののび太/保護者的存在としてのドラえもん」という構図で見ていた。
「ドラえも〜〜〜ん」と泣きつくのび太のお願いを聞き、未来の道具で問題を解決してくれるドラえもん。
ぶっちゃけ「教育」的観点から言えば、本人の努力抜きに便利な問題解決を提供してくれるドラえもんの存在は、子どもを甘やかしてダメにするロボットである。
しかし、この年で改めてドラえもんを見て気になったのは、ドラえもんがどこか「ぬけている」という点である。
気になるどころじゃない。
ドラえもんが道具を選ぶシーンを見ると、ひじょーにヤキモキする。
「いやいや急いでるんだから、そこはタケコプターじゃなくて、どこでもドア使った方が移動早いでしょ!」とか、「苦戦してるなら、スモールライトで敵を片っ端から小さくしちゃえばいいじゃん!!」てな具合である。
まぁストーリー上の都合ってもんがあるのだろう…と大人な(?)判断を下しつつ、ヤキモキを抑えながら鑑賞するわけである。
しかしそれにしても、そのようなシーンがあまりに多い。
道具選択の問題だけじゃない。
出した道具の扱いもぞんざいであり、リスク管理もおろそか(例えば『魔界大冒険』では、ドラえもんの道具が波乱を引きおこす原因となる)。
そしてドラえもんには、失言も間違いも結構な頻度で見られる。
それはどう贔屓目に見ても、高度な人工知能を備えている未来のロボットとは思えないほどのアホさである(失礼)。
そんなことを考えていたら、事実、ドラえもんは制作途中で頭のネジが外れた欠陥ロボットだったことを思い出した(映画『2112年 ドラえもん誕生』)。
学校でも落第。ロボットアカデミー卒業後も貰い手の希望者が現れない落ちこぼれロボット。それがドラえもんなのである。
それに気付いたとき、『ドラえもん』の魅力をやっと言語化できるようになった気がした。
この作品は、僕が勘違いしていたような、「保護者的ロボットと世話される男の子の話」などではないのだ。
『ドラえもん』は、(ちょっとカッコつけて言えば)二人の落ちこぼれを主人公とした友情の物語なのである。
四次元ポケットにはほぼ万能とも言えるほど便利な道具が入っているけれど、ドラえもんものび太もそれを充分に使いこなせていない。
だから文句や不満も出て喧嘩もするし、予測不可能な事態にも陥る。
道具はすごく役にたつものであるけれども、本当の窮地に立たされたとき、道具が全てを解決してくれるわけじゃない。
結局問われるのは、目の前の困難を、便利な道具や手段が解決してくれるという保証がないなかにあって、いかに乗り越えていくかなのである(現実の僕たちの人生と何が違うだろう)。
そして思い通りにいかない出来事を前にして、仲間といかに励まし合い、ときに喧嘩し、共に生きていくかなのである(現実の僕たち…略)。
自分に能力がないことは言い訳にならないことを、落ちこぼれののび太とドラえもんが教えてくれている。
すぐ手軽な手段・便利な道具へと頼りたくなるのび太的な自分にとって、思わされることは大きいなぁ。『ドラえもん』は、道具に頼る生き方をダメだとは言わない。にもかかわらず同時にこの不朽の名作は、どんな万能な道具をも超えたところにある大切なものを教えてくれているんじゃないか。そう思わされるわけである。
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