きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2012年6月30日土曜日

ディベートと自己正当化、という話

6月頭に、母校の学園祭に行った。
弟ののど自慢とライブ見れたり、懐かしい先生にお会いできたり、よいときだった(ちなみに弟はのど自慢、校内二位だった笑)。


学園祭といえば、思い出すイベントの一つはディベートだ。
僕が通っていた時代、学園祭では各クラスから代表者4名が出て、トーナメント形式でディベートバトルを繰り広げていた。そして、24学級のうち一位は先生チームとのエキビションマッチに挑むのである。
議題は多岐に渡り、学園祭のメインステージで繰り広げられる議論の応酬は、なかなかに見応えあるものであったりする。議論のレベルが一般高校生のものである ことは差し引いて考えねばなるまいが。
かくいう私も、高校時代三年間ともそれに参加した(まぁ、好き好んでやりたがる人は少ない)。



久しぶりに、ディベートを見ていて、妙に懐かしい気分になった。
論理という武器をもって、他の人と本気で最後まで意見を闘わせようとする機会なんて、高校時代は滅多にない。
日常生活において、意見を対立させることそのものが、多少なりともストレスフルであるわけで。
自分の主張を押し通すことはそれはそれで面倒なことである。


授業でも、これは残念なことだが、ガチな意見のぶつけ合いが行われることなんてない。
勉強は基本一人でするもの。教えられたことを習得することが受験生・受験予備軍の学生に与えられた使命だ。
そこでは、自分で何かを発想したり、自分の意見を本気で主張する場はない。



ディベート的な議論の場は、年に一度のイベントへと回収され、非日常の出し物と化している。
とはいっても、僕はとりたてて「ディベート」を推奨したいわけではない。
むしろ、今回学園祭に参加して、「ディベート」廃止論者(?)に一歩近づいたように思っている。

なぜなら、ディベートは、対話の作法を全く無視しているように思われるからである。
正当化すべき答えがまず始めにあって、自分の立場を変えることがルール違反とされるディベートにおいては、相手の意見は無視されるか、低く見積もられるか、あるいは持論に取り込まれるかしかない。
そこでは、他者の意見から学ぶということは起こらない。


そして自己正当化が目的となって議論が進むとき、人は手段を選ばなくなる。
強圧的に相手に詰め寄り、相手の言葉尻を捉え、話をすり替え、そして呆れたことに、それを自分では至極真っ当な意見を主張しているつもりで堂々とやってのけるのである(日常で考えても、身に覚えがあり過ぎる)。



ディベートが、勝ち負けを至上目的とするとすれば、それは、やる人・観る人のうちで「話し合いとは、自分の意見をいかに正当化するかだ」という過った意識を植え付けないだろうか。
教育は、それとは異なる対話の可能性を子ども達に開いているだろうか。
本気で心を割って自分の意見を述べることと、相手に聴き学び自分の意見を柔軟に変えていくことは、どうしたら両立するだろうか。
「ディベートバトル」は非日常かもしれないが、日常のなかに、そのような機会はたくさん転がっているとも思われるわけで。

2012年6月24日日曜日

ドラえもんの話

 最近ドラえもん(主に映画)を観る機会がちょこちょこあって、自分のなかでのドラえもん観が結構変わったなぁと思う。
昔は、「落ちこぼれののび太/保護者的存在としてのドラえもん」という構図で見ていた。
「ドラえも〜〜〜ん」と泣きつくのび太のお願いを聞き、未来の道具で問題を解決してくれるドラえもん。
ぶっちゃけ「教育」的観点から言えば、本人の努力抜きに便利な問題解決を提供してくれるドラえもんの存在は、子どもを甘やかしてダメにするロボットである。

 しかし、この年で改めてドラえもんを見て気になったのは、ドラえもんがどこか「ぬけている」という点である。
気になるどころじゃない。
ドラえもんが道具を選ぶシーンを見ると、ひじょーにヤキモキする。
「いやいや急いでるんだから、そこはタケコプターじゃなくて、どこでもドア使った方が移動早いでしょ!」とか、「苦戦してるなら、スモールライトで敵を片っ端から小さくしちゃえばいいじゃん!!」てな具合である。
まぁストーリー上の都合ってもんがあるのだろう…と大人な(?)判断を下しつつ、ヤキモキを抑えながら鑑賞するわけである。

 しかしそれにしても、そのようなシーンがあまりに多い。
道具選択の問題だけじゃない。
出した道具の扱いもぞんざいであり、リスク管理もおろそか(例えば『魔界大冒険』では、ドラえもんの道具が波乱を引きおこす原因となる)。
そしてドラえもんには、失言も間違いも結構な頻度で見られる。
それはどう贔屓目に見ても、高度な人工知能を備えている未来のロボットとは思えないほどのアホさである(失礼)。

 そんなことを考えていたら、事実、ドラえもんは制作途中で頭のネジが外れた欠陥ロボットだったことを思い出した(映画『2112ドラえもん誕生』)。
学校でも落第。ロボットアカデミー卒業後も貰い手の希望者が現れない落ちこぼれロボット。それがドラえもんなのである。

 それに気付いたとき、『ドラえもん』の魅力をやっと言語化できるようになった気がした。
この作品は、僕が勘違いしていたような、「保護者的ロボットと世話される男の子の話」などではないのだ。
『ドラえもん』は、(ちょっとカッコつけて言えば)二人の落ちこぼれを主人公とした友情の物語なのである。
四次元ポケットにはほぼ万能とも言えるほど便利な道具が入っているけれど、ドラえもんものび太もそれを充分に使いこなせていない。
だから文句や不満も出て喧嘩もするし、予測不可能な事態にも陥る。
道具はすごく役にたつものであるけれども、本当の窮地に立たされたとき、道具が全てを解決してくれるわけじゃない。
結局問われるのは、目の前の困難を、便利な道具や手段が解決してくれるという保証がないなかにあって、いかに乗り越えていくかなのである(現実の僕たちの人生と何が違うだろう)。
そして思い通りにいかない出来事を前にして、仲間といかに励まし合い、ときに喧嘩し、共に生きていくかなのである(現実の僕たち…略)。
自分に能力がないことは言い訳にならないことを、落ちこぼれののび太とドラえもんが教えてくれている。

 すぐ手軽な手段・便利な道具へと頼りたくなるのび太的な自分にとって、思わされることは大きいなぁ。『ドラえもん』は、道具に頼る生き方をダメだとは言わない。にもかかわらず同時にこの不朽の名作は、どんな万能な道具をも超えたところにある大切なものを教えてくれているんじゃないか。そう思わされるわけである。