きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2012年5月28日月曜日

星たちへの歌:レヴュー「R.I.P」


 BUMP OF CHICKENの『COSMONAUT』収録曲「R.I.P」。お墓参りの曲。原曲こちら


 子どもの頃、世界は不思議で満ちていた。だけど、年を重ねるにつれて「当たり前のもの」が日常を埋め尽くしてゆく。たいていのことでは驚かなくなったし、真夜中の暗がりのなか幽霊に怯えることも、「謎のサーチライト」を探しにいくこともなくなった。世界は、わくわくする冒険の世界から、見慣れた日常へと変わっていく。それにともなって、生き生きとしていた日常も、宝物だった思い出も、いつのまにか追憶の彼方へと消えていく。

 見えないことが今よりもあった
 寂しいのは失くしたからじゃない

 「寂しいのは失くしたからじゃない」と言う。それなら、なにが「寂しい」のか。寂しいのはきっと、何かを失くしたからではなく、これから何かを失くしていくことを知ったから。君との思い出も、自分にとって宝物である今も、いずれは失われる。いずれは、寂しさも感じなくなるほど、完全な喪失が訪れる。
 「寂しいのは失くしたからじゃない」というのは、言い得て妙だ。確かに、本当に失くしてしまったら、もはやほとんど寂しいとも思わないだろう。たとえエピソードは覚えていても、生々しいまでのそのリアリティと感情の機微は喪失され、単なる「よい思い出」に成り下がる。ほんのりした切なさと寂しさをどこか覚えつつ、それで終わりだ。だからこそ、これから失くしていくものを大切に出来るのは、今しかない。この曲が歌っているのはこのことなのだと思う。

 そこにキミがいなかったこと そこにボクがいなかったこと
 こんな当然を思うだけで 今がこれほど愛しいんだよ 怖いんだよ


 失われた過去は、もう二度と戻らない。今更大切にしたくても出来ないし、大切にしたいという思いすら、ほとんど湧いてこない。だってどんなに大切だったかというリアルな感情すら、もう僕は失くしてしまっているから。
 だけどこの曲は、もはや失われた過去の宝物、宝物ですらなくなってしまった「元宝物」に目を向ける曲でもある。歌われているのは、決して現実に帰ってはこない過去を丁寧に埋葬し墓参りする生き方。引き連れて行けないならせめてと、お墓の前で「安らかに眠れ Rest in PieceR.I.P)」と語りかける歌。(ちなみに、埋葬&墓参りのモチーフは「カルマ」にも出てくる)



 最近、『COSMONAUT』(宇宙飛行士)というタイトルが何故このアルバムに選ばれたのかを考えていたのだが、ピンと来るものがあった。「宇宙」はBUMPが好んで使うモチーフだが、そこは星たちの世界だ。そこは、僕らの視界の彼方に広がる世界、手を伸ばしても決して届かない世界。そして同時に、死んで星になったものたちの世界。宇宙飛行士は、僕たちが普段暮らしている安定した大地から離れ、その星々を訪れる。いや、厳密に言えば、その星の群れのほとんどは訪れることすら適わない。遠くから眺めやるだけか、いずれにせよ、宇宙服越しでは直接触れることはできない。そんな場所だ。
 昔からずっと、死んだ者が星となって還っていく場所とされてきた宇宙。そのような世界を、宇宙飛行士は旅する。死の静寂があたりを包んでいることを知りつつも、生命のない世界に命へのヒントを見出そうとするかのように。もう決して直接触れることの出来ない失われたものと、それでもなお接触を試みるかのような。


 だから、BUMPにとってのCOSMONAUTとはきっと、(少なくとも一面において)墓参りする人達への呼び名なのだ。星となった思い出、もう取り戻せない過去になった記憶を、それでもなお思い出し、「安らかに眠れ」と語りかける。R.I.P」はもちろんのこと、代表曲「魔法の料理」「宇宙飛行士への手紙」もまた、そんなお墓参りの歌なのだと思う。そしてそれは、過去が過ぎ去ったものとしてもう取り戻せなくなったことを知るからこそ、現在を心から大切にできる、そんな可能性を歌っている曲なのだ。

 今もいつか過去になって 取り戻せなくなるから
 それが未来の今のうちに ちゃんと取り戻しておきたいから
  (「宇宙飛行士への手紙」)

2012年5月15日火曜日

レヴュー・続「ひとりごと」


BUMPの曲「ひとりごと」について以前書いたレビューの追記。読んでない人はそちらを先にどうぞ^^


 「本当の優しさって何だろう」というようなまどろっこしい悩みは、それほど皆がするわけではないらしい。歌詞にあるように、ときに人は「頭ヘンになった」んじゃないかとか「ちょっと考え過ぎ」と言うかもしれない。だから〈ひとりごと〉として歌詞は綴られる。そうなのだ、この「ひとりごと」という曲の歌詞内容そのものが、(聴いてもらうことを目的として創られた作品であるにも関わらず!)「君」に何かを伝えることを目的としていない〈ひとりごと〉なのだ。
 なぜ「ひとりごと」なのか。この曲のタイトルは超秀逸だと思う。僕たちが友人や恋人の間で使う「好きだよ」「愛している」という言葉は、いかに本人が「本気」の想いを込めていたとしても、きっと何かしらの不純なものを含んでいる。多くの場合。相手への「愛している」というメッセージは、ときに相手にとっての重荷となり、ときに相手に何かを要求するツールとなる。僕らはそれを、意図せずして、意図してしまうのだ。無意識のうちに、「これを伝えよう」が「これを伝えることで〇〇してもらえたらいいな」になってしまっている。だからこの曲は、相手に精一杯の愛を伝えようとする曲で溢れているこの世の中にあって、あえてメッセージではない〈ひとりごと〉を歌うのである。なぜなら、優しさ=愛とは、歌われているように「君に渡そうとしたら 粉々になる」性質のものだから。
 聴いてもらうためにひとりごとを唱う藤君。なんて逆説的なんだ。自然に口から出てくるような、押し付けのないひとりごとのメロディが、この曲でいうところの優しさなんだろな。

2012年5月13日日曜日

昔はやんちゃでした、という話。


 子どもの頃、世界は不思議で満ちていた。世界を知らなかった分、かっこ悪く不器用に、でも思うままに生きていた。中学生に上がる直前だっただろうか、一人の不良化し始めた友達を(それとは知らず)面白半分にからかったことがある。逆上した相手の子は、顔を真っ赤にさせ飛びかかってきた。僕はひどくびっくりし、目を白黒させた。ちょっとした戯れの発言だったのに。その頃の僕は、空気の読めない、無邪気な11歳だったのだ。
 中学校に上がって、世界は必ずしも僕に肯定的に接してくれるわけではないことを知った。出る杭は打たれるのだ。「調子のってんじゃねぇぞ」という言葉は、子どもの心にはひどく堪える。学級内権力構造の上位に位置する一部のクラスメートとの非友好的な関係を通じて、僕は徐々に空気を読むすべを学んでいく。先生に呼び出されることも、やんちゃな子と喧嘩することも減っていった。

 高校に入学してからは、「つまんない人間になったかな」とのびのびと生きていた昔を振り返ることもあった。今思うと、小学生時代は守られていたのだ。4年間担任をもっていただいた恩師には、間違いを恐れなくていいことと、自分を隠さなくていいことを日々の教育実践を通して教えていただいたのだと思う。人生の宝物だ。中学校は、地域の異なる小学校から進学してきた生徒も多かった。クラスメート同士での経験したことのない権力関係に戸惑いながら、叩かれないよう、問題を起こさないようにと、自己統制を学んでいった。それが「大人」になるということだったのだろうか。


 僕は僕だ。僕にしかなれない。「昔がもっとこうだったら」と振り返ることに意味はない。そして何より僕は自分自身が嫌いじゃない。だから与えられてきた環境には感謝しかない。心からそう思える。自分の性質に嫌いなところは多々あるし、自分の行動に後悔するところはあるにしても。

 ただもう一方で、中学生以降、不思議で満ちていたわくわくする世界が、ほんのりと色を失っていったように感じるのだ。決して喜びがなかったわけでもなければ、人生に絶望していたわけでもない。それは普通に楽しい日常だった。周りを気にしながら生きる生き方は、慣れてさえしまえば比較的楽な生き方なのだ。僕は世間をそつなく生きるための「社会性」を身につけていった。他の人への配慮の視点を内面化する必要性に迫られることは、遅かれ早かれ経験しなければならない通過儀礼であろう。その点肯定的に受けとめている。
 大切なのは、同時にそこで失われたものもきっとあったということだ。僕は世界を、自分が自由に切り拓くものとしてではなく、自分を攻撃するものとして見るようになったのかもしれない。そこでは自らを守る姿勢が形成され、新しいものに果敢に挑み探求していく攻めの姿勢(?)は多少なりとも失われた。教育は、得られるであろうこと以上に、失われるであろうことにも目を向けなければならないだろう。「学力」「社会性」「個性」「道徳性」...それがなんだとしても、その獲得を目指して教育がなされるときに犠牲になるものは何であろうか。教育学では「子どもは無限の可能性をもっている」と言われる場合があるが、そうであれば成長し大人になるということはその可能性を限定していくことに他ならないのではないか。教師は、日に日に子どもの「無限」の可能性を切り捨て限定している。だが、可能性を切り捨てることによってしか拓かれない可能性があるのだとしたら、あるいは子どもの何かを犠牲にすることを通してしか教育が為しえないのだとしたら、教師は決してその責務から逃れることは出来ない。人の人生に関わり、その可能性に触れる、教師の責任はきっと果てしなく重い。...途方もないなぁ。

 ちなみに言えば、世渡りが上手になっていった少年には、その後また転機が訪れる。が、それはまた別のお話。