きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)
2012年4月15日日曜日
レヴュー「ギルド」
BUMP OF CHICKENの『ユグドラシル』収録曲。ままならない僕らの生と、そこでのほんの少しの希望を唄った曲。原曲こちら。
生まれたくて生まれたわけじゃない。好きで人間やってるんじゃない。選んだわけではないのにこの世に生を受け、何故か生き続けなければいけない。なんとなくそんな風に感じることがあるだろうか。大学生になった頃からだろうか、鬱というものはこういう感覚の延長線か、と少し分かるようになった。ときに、なんともいえない生きることの不全感に身を苛まれることがある。
人間という仕事を与えられて どれくらいだ
相応しいだけの給料 貰った気は少しもしない
そんな感覚に身をひたすとき、まるで生きていることが「人間という仕事」のように思えてくる。「与えられた」仕事をただ漫然とこなすだけ。それに見合うだけの見返りもないように思える。そしてそれは非日常の特別な感覚では決してなく、「まともな日常」において、終わりなく続くかに思える倦怠と憂鬱の感覚。
人間という仕事をクビになって どれくらいだ
とりあえず汗流して 努力をしたつもりでいただけ
人間をやらされている感覚がさらに鋭く僕たちを突き刺すようになると、自分はそのやらされている「人間」すら引き受けきれなくなる。人間失格している自分は、輝いてもいなければ、人の役に立っているわけでもない。人間という仕事をクビになって、それでもなお自分は生きていていいのだろうか。どうにもならない生の不全感は、自らの生そのものの正当性への問いへと結びついていく。「生きていていいのだろうか」「生きる意味はあるのだろうか」と。
美しくなんかなくて 優しくもできなくて
それでも呼吸が続くことは 許されるだろうか
普段僕らは、当たり前のように生きている。自分が今・ここに生きていることの奇跡に何の疑問も抱かずに、限りある生の灯火を消費・浪費している。だけど、ひとたび人間として生きることが当たり前でなくなり、僕らの生きていることに疑問符がつけられると、今与えられている命の意味と真剣に向き合うチャンスが訪れる。自分はなぜ生きていて、これからどう生きるのか、僕らは問われ迫られる。
「ギルド」は、生きることのどうしようもない哀しさを唄った曲だ。だけどもしかしたら、生きることの哀しさ・やるせなさに晒されることは、本当に人間らしく生きることを僕たちに教えてくれるのかもしれない。「人間」という生を、与えられて嫌々やるものではなく、自らが「望んだ」「選んだ」ものとして生きるために。「汚れた自分」を引き受けながら。
[追記]
BUMPはアルバムを一貫したストーリーをもって創っている。曲順にもまた、強いメッセージがある。「乗車券」での絶望を経て、「ギルド」では自分が存在していること自体の哀しさが唄われるが、その次の曲は、「embrace」。そこでは、「醜い本音」を晒した自分の存在を、「腕の中へおいで」と受けとめてくれる人と出遇う。そしてその次の「sailing day」では、自らの「過ち」も「絶望」も引き受けながら、「精一杯 存在の証明」をしていく。あぁ、藤君さすがやぁ笑。絶望と哀しさが希望へと繋がっていく様子を、この「ギルド」という曲の外部でもなお描いているなんて。
_____________
「ギルド」 作詞・作曲 藤原基央
人間という仕事を与えられて どれくらいだ
相応しいだけの給料 貰った気は少しもしない
いつの間にかの思い違い 「仕事ではない」 解っていた
それもどうやら手遅れ 仕事でしかなくなっていた
悲しいんじゃなくて 疲れただけ
休みをください 誰に言うつもりだろう
奪われたのは何だ 奪い取ったのは何だ
繰り返して 少しずつ 忘れたんだろうか
汚れちゃったのはどっちだ 世界か自分の方か
いずれにせよ その瞳は 開けるべきなんだよ
それが全て 気が狂う程 まともな日常
腹を空かせた抜け殻 動かないで 餌を待って
誰か構ってくれないか 喋らないで 思っているだけ
人間という仕事をクビになって どれくらいだ
とりあえず汗流して 努力をしたつもりでいただけ
思い出したんだ 色んな事を
向き合えるかな 沢山の眩しさと
美しくなんかなくて 優しくも出来なくて
それでも呼吸が続く事は 許されるだろうか
その場しのぎで笑って 鏡の前で泣いて
当たり前だろう 隠してるから 気付かれないんだよ
夜と朝を なぞるだけの まともな日常
愛されたくて吠えて 愛されることに怯えて
逃げ込んだ檻 その隙間から引きずり出してやる
汚れたって受け止めろ 世界は自分のモンだ
構わないから その姿で 生きるべきなんだよ
それも全て 気が狂う程 まともな日常
与えられて クビになって どれくらいだ 何してんだ
望んだんだ 選んだんだ 「仕事ではない」 解かっていた
2012年4月10日火曜日
レヴュー「セントエルモの火」
BUMPの『COSMONAUT』収録のアルバム曲「セントエルモの火」。このアルバムの中でも一位二位を争うくらい好き。このレヴューを読んで下さる方がいたら、是非このブログの解釈・意味ながめる前に原曲を聴いてみて下さい。
原曲こちら。
「君」を追いかけて坂道を歩く「僕」。曲の中で何度も「僕」はこう問いかける。「どれくらい先にいるんだろう?/how far are you?」と。自分にとっての大切な人(友人?家族?恋人?)と一緒に生きているにも関わらず、その人のことを自分からあまりに遠くに感じたりすることがある。むしろ、そういった「自分と相手とは違う」という当たり前の事実に、心の距離が近いからこそ気づけないのかもしれない。だけど、大切な人との関係のなかで、ときに僕たちは迷子になる。隣にいたはずの相手が、今はどこにいるのか解らなくなる。そういうときほど、僕らは解り合おうとしても解り合えないことに気づく。解って欲しくて、解ってあげたくて、何度も何度も言葉を重ねて、それでもすれ違って。
他者とのそんなどうにもならない関係に悩むとき、どうしたらいいのか。「一緒に生きてる事は当たり前じゃない」と気づくとき、どのように相手と関わり合っていけるのだろうか。曲中の「僕」は、ただ相手を追ってついて行くことを選ぶ。
「解り合おうとしたら迷子になる 近くても遠くてややこしくて面倒な僕らだ
だからついて来たんだ 解り易いだろう ちょっとしんどいけど楽しいよ」
僕らはよく勘違いしてしまうが、他者関係において「解り合おう」とすることと「ついて行く」ことは、圧倒的に違う。この曲は、その二つの言葉の差異について歌っている曲だといってもいいだろう。
相互理解を目指すことは、自分と同等に相手にも理解を要求することだ。つまり、「解り合おう」という美しい言葉は、意外なほどやすやすと、「私もあなたのことを理解するから、あなたも私のこと理解してね」という交換の言葉に転じてしまう。そこでは、自分の責任を果たすことの交換条件として、相手にも同じものが要求される。そしてそれは、もう一歩進めば、責任を果たさない相手を責める言葉になる。僕らは、相手に対して「何で解ってくれないんだ」と嘆きながら、同時に「あいつの言動の意味が分からん」と不平を言う。なんて自分勝手な生き物だろう。なんてバカなんだろう。なぜ自分を理解しない他者を責めながら、「相手のことを解ってやれない」自分を責めないのか。
解り合おうとしたら迷子になる。相手に責任を押し付ける罠から逃れるために、「僕」は「ついて行く」ことを選ぶ。たとえ解ってもらえなくても、相手のことがまだ解らなくても、ただ「君」という場所に向かって。
その道程を、「僕」は「しんどいけど楽しい」と表現している(この「楽しいよ」の藤君の歌声は心底胸が震える)。それは、悩みと葛藤に涙しながら、それでも前を向き進んでいくような、「わからない何か」で胸が満たされている心の様子。
そして、「僕」は決して自己犠牲を目指して英雄ぶっているわけではない。繰り返し歌われる「お互い様」という言葉が、そのことを表している。
「how far are you? 僕が放った唄に 気づいてないなら
いつまでだって歌おう 君のおかげなんだよ
いつも探してくれるから 必ず見つけてくれるから」
僕が君を探しに追っていく前に、君がまず僕を探して見つけてくれた。だから僕が今してることも全部、「君のおかげ」なのだ。
「お互い様」という言葉が好きだ。これは、「相手から自分」「自分から相手」という双方向性を示す言葉でありながら、決して相手に何かを要求するための言葉——相手に責任を押し付け、自分を正しいものとする言葉——にはならない。むしろこれは、相手が自分に為してくれたことについて感謝をもって思い返す言葉。「自分はこれだけやってるんだ」という思い上がりを拒絶する言葉。きっと、自己が支えられていることへの気づきによって、大切な人との関係は紡がれる。
____________________
「セントエルモの火」 作詞・作曲 藤原基央
夜が終わる前に追い付けるかな 同じ坂道の上の違う位置で
同じ場所に向けて 歩いてるんだ 今どんな顔してる
どれくらい先にいるんだろう
言葉を知ってるのはお互い様な 言葉が足りないのもお互い様な
勝手について来たんだ 構わず行けよ ほら全部がお互い様な
how far are you? 星が綺麗な事に 気付いてるかな
僕が気付けたのは 君のおかげなんだよ ずっと上を見てたから
急に険しくなった手も使わなきゃ ここ登る時に怪我なんかしてないといいが
立ち止まって知ったよ 笑うくらい寒いや ちゃんと上着持ってきたか
解り合おうとしたら迷子になる 近くても遠くてややこしくて面倒な僕らだ
だからついて来たんだ 解り易いだろう ちょっとしんどいけど楽しいよ
how far are you? 震える小さな花を 見付けたかな
闇が怖くないのは 君のおかげなんだよ 君も歩いた道だから
言いたい事は無いよ 聞きたい事も無いよ
ただ 届けたい事なら ちょっとあるんだ
ついて来たっていう 馬鹿げた事実に
価値など無いけど それだけ知って欲しくてさ
どれくらい先にいるんだろう どれくらい離れてるんだろう
靴紐結びがてら少し休むよ どうでもいいけどさ 水筒って便利だ
寝転んでみた夜空に 静寂は笑って 月が滲んで揺れる
解らない何かで胸が一杯だ こんなに疲れても足は動いてくれる
同じ場所に向けて 歩いてたんじゃない 僕は君に向かってるんだ
how far are you? 一緒に生きてる事は 当たり前じゃない
別々の呼吸を 懸命に読み合って ここまで来たんだよ
how far are you? 僕が放った唄に 気付いてないなら
いつまでだって歌おう 君のおかげなんだよ いつも探してくれるから
必ず見付けてくれるから
今どんな顔してる ちょっとしんどいけど楽しいよ
ほら 全部がお互い様な さあ どんな唄歌う
どれくらい先にいるんだろう どれくらい離れてるんだろう
どれくらい追い付けたんだろう
さあ どんな唄歌う
2012年4月9日月曜日
レヴュー『余は如何にして基督信徒になりし乎』
2012/03/31
☆☆☆★
内村鑑三がクリスチャンになって、信仰の確信を持つに至るまでを自伝的に描いた本(ちなみに原著は英語で書かれている)。無教会主義と呼ばれる彼の信仰がどのように形成されていったのかがよく分かる本。すごく単純化して言えば、内村の思想の核は「大事なのは外形じゃなくて本質なんだよ!!」ということに尽きるのだと思う。「教会」も「牧師」も「聖礼典」も本質ではない、と言ってしまうところに彼の信仰理解と大胆さが現れている。
本当に大事なことそのもの(本質、真理)は、僕たちが形として残しておくことは出来ない。瞳に映るのは、外側の形に宿った仮の姿でしかない。
僕たちは、本質を掴んでいる気でいないか。僕たちは、真理を手にしていると思っていないか。なんとおこがましいんだろう。真理は神の側に属している。この世界のどこか、あるいはこの世界を超えたどこかにもし真理というものが存在するなら、それは人間には掴むことの出来ないものだ。それは、瞬間的に垣間見え、そのほんの一部を私たちが味わうことができるだけ。少なくとも、聖書の指し示している真理は、僕たちが完全に理解して所有出来る類いのものではない。絶対に違う。
ユダヤ系哲学者マルティン・ブーバーは、神の言葉を「流星」に例えた。私たちが、地表に落ちてくる流星の炎を目撃したとしても、その落下した隕石を取り上げて「これが流星だ」と言うことは出来ない。それはもはや燃え尽きて、「ただの」岩石になっている。私たちは、残った岩石にではなく、それが煌めいて燃えていたというリアリティに、何度でも目を向けなければいけないだろう。
真理はたえず、僕たちの手からすべり落ちていく。垣間見た「真理」と、言いようもない体験を、事後的にどんなに言葉にしたとしても、残ったのは言葉だけだ。だから、僕らは「流星」に語られ続けなければならない。自分のうちに真理は存在しないのだから。
☆☆☆★
内村鑑三がクリスチャンになって、信仰の確信を持つに至るまでを自伝的に描いた本(ちなみに原著は英語で書かれている)。無教会主義と呼ばれる彼の信仰がどのように形成されていったのかがよく分かる本。すごく単純化して言えば、内村の思想の核は「大事なのは外形じゃなくて本質なんだよ!!」ということに尽きるのだと思う。「教会」も「牧師」も「聖礼典」も本質ではない、と言ってしまうところに彼の信仰理解と大胆さが現れている。
本当に大事なことそのもの(本質、真理)は、僕たちが形として残しておくことは出来ない。瞳に映るのは、外側の形に宿った仮の姿でしかない。
僕たちは、本質を掴んでいる気でいないか。僕たちは、真理を手にしていると思っていないか。なんとおこがましいんだろう。真理は神の側に属している。この世界のどこか、あるいはこの世界を超えたどこかにもし真理というものが存在するなら、それは人間には掴むことの出来ないものだ。それは、瞬間的に垣間見え、そのほんの一部を私たちが味わうことができるだけ。少なくとも、聖書の指し示している真理は、僕たちが完全に理解して所有出来る類いのものではない。絶対に違う。
ユダヤ系哲学者マルティン・ブーバーは、神の言葉を「流星」に例えた。私たちが、地表に落ちてくる流星の炎を目撃したとしても、その落下した隕石を取り上げて「これが流星だ」と言うことは出来ない。それはもはや燃え尽きて、「ただの」岩石になっている。私たちは、残った岩石にではなく、それが煌めいて燃えていたというリアリティに、何度でも目を向けなければいけないだろう。
真理はたえず、僕たちの手からすべり落ちていく。垣間見た「真理」と、言いようもない体験を、事後的にどんなに言葉にしたとしても、残ったのは言葉だけだ。だから、僕らは「流星」に語られ続けなければならない。自分のうちに真理は存在しないのだから。
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