きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2013年10月8日火曜日

なぜ「悪いこと」を止められない、のか。








「やめられない、止まらない」というフレーズがある。
かといって勘違いされても困るのだが、「かっぱ○びせん」の話をしたい、というわけではない。
今回は、もうちょっとネガティブな意味での「やめられない、止まらない」の話になる。

美味しいものや、楽しいことや、有意義なことを「やめられない、止まらない」と感じるのは、幸せなことである。
「かっぱ○びせん」しかり。スポーツしかり。趣味しかり。
しかし問題は、大して楽しくも有意義でもないものを、「やめられない、止まらない」場合である。
さらには、害があると自覚しているものですら、「やめられない、止まらない」ことがある。
家族や友人との言い争いや、全く生産的でない時間の過ごし方など、些細なことを含めて思い当たる節は多い。
そういう意味で、「毒をくらわば皿まで」という言い回しは、僕の生き方にとても馴染み深い。
一度悪い方向に身をゆだねてしまったら、「行き着くとこまで行ってやろう」となる性質が僕のなかにはある。
そういう意味で、「悪いこと」はさらに「悪いこと」を誘発する。
あやまちのうえに、あやまちは重ねられていく。

かりに、「悪いこと」「あやまち」をキリスト教的なニュアンスで「罪」と呼ぶことにしよう(深い意味を込める意図はないので、「すべきでないこと」「したくないこと」「間違ったこと」など好きに言い換えてもらって構わない)。
聖書には、「なすべきことを知っていながらそれを行わないなら、それは罪です」といった言葉がある。
なるほど。どうやら、「なすべきこと」を「できない」、「悪いこと」を「やめられない」性質は、僕だけが持っているものではないらしい。
僕たち人間は、なすべきことを知っていながら、それとは反対の地点に留まり続ける(場合がある)と聖書は語る。
いや、それにしてもなぜ、「罪」を犯したときにすぐに立ち返り、スパッとそこから足を洗うことができないのだろう(「なすべきでない」と知っているなら、止めればいいのに)。
なぜ僕たちは、むしろさらに悪い方向へと歩みを進めようとしてしまうのだろう。

思うにそれは、「罪」が心底魅力的だからでも、「罪」に身を委ねているときに幸福感を感じるからでも、「罪」が僕の心を晴れやかにしてくれるからでもない
僕たちはきっと、そのような積極的理由から罪にコミットし続けているわけではない。
「悪いこと」に身を浸しているとき、(表面的・一時的な快楽や高揚とは別に、)心の中には不快感が充満している。
「これではいけない」と心のどこかで声がしている。
心の向きとは違う方向に自分が進んでいるときには、もやもややイライラが溜まる。
外傷によって身体は「痛み」という警告音を鳴らすが、
心もまた、自分の内面があらぬ方を向いているとき「痛み」や「違和感」という警告音を鳴らすのだろう。
その意味で、罪は痛むものだと思う。

では、罪が痛みをともなうものであるなら、なぜ僕たちはその「悪いこと」を重ねようとするのだろう(さっきと同じ問いである)。
「毒を喰らわば皿まで」と言うが、どうして僕たちは、「食べてしまった毒物」だけでなく「皿に残った毒」まで喰らおうとしてしまうのだろう(※)。

――僕たちは、「新しい痛み」をもって「さきほどの痛み」を克服しようとしているのではないか。これが自分なりに出した結論である。
分かりにくい言い回しかもしれない。
要は、「注射が痛いから、手の甲をつねる」的なアレである。
きっと僕は、自分がしてしまったことの罪悪感を引きづりたくないと思っている。早く忘れ去りたい。だから、さらなる罪によってそれまでの罪の痛みをかき消そうとするのだ。
イメージしてみる。
真っ白な紙に、一箇所黒いシミがつくことは大変重大なダメージに思える。
しかし、もしそこに数カ所黒いシミを加えてしまえば、最初の一つの「取り返しのつかなさ」はだいぶ薄れる。
さらにシミの数が無数になれば、最初の一つはもはやどうということはなく思える。
つまり僕たちは、罪に罪を重ねることによって、自分が最初にしてしまった罪の深刻さを、相対的に、やわらげようとしている。
「毒の痛み」に耐えきれず、「さらなる毒」で「痛み」を上書きしようとするのである。
罪は単発では終わらない。
罪は新たな罪を呼びよせる。
そして僕たちの耳元で囁くのだ、「ほら、さっきのだってそんな大したことないんだよ」。

「注射が痛いから手の甲をつねる、手の甲が痛いから頬を平手打ちする、頬が痛むから足のすねをハンマーで叩く、…」という罪量産体制のスパイラル。
それが繰り返されれば、徐々に「痛み」への耐性がついてくる。
実は全身ずきずき傷んでいても、感覚を麻痺させることを学んだ自分にとっては、ほとんど気にもとまらなくなる。
そうして僕の内部で「罪量産マシーン」(別名「罪悪感抹消マシーン」)は完成。今日も稼働し続けているわけだ。

もしかしたら僕たちは、もうだいぶ取り返しのつかないところまで、罪に慣れきってしまったのかもしれない。
罪のもたらす痛みに鈍感になりすぎたのかもしれない。
しかしもしそうだとしても、それはある意味では仕方のないことだろう。
人は、自身の罪をすべて引き受けることができるほど強くはない。
僕らは、願いを誤摩化しながら、心の痛みを抑圧しながら、生きていくことしかできない。少なくとも人生のある部分においては。
でなければ人は壊れてしまう。

しかし同時に、痛みを抑圧することは、自分の願いや心の叫びを抑圧することでもある。
痛みを誤摩化すことしかしなければ、そこでも、おそらく人は壊れてしまうのだろう。
だが、幸運なのか不運なのか、人のもつ「痛み」への耐性は万能ではない(つくづく人間の心はよくできているなぁと思う)。
どんなに「悪いもの」に慣れていても、どうしても無視できない「痛み」が生じることがある。
そこではきっと、その「痛み」を通して、心が「お前はそれでいいのか」と叫んでいる。
一度でも二度でも、その声を聴き取っていけたらと願う。
「注射が痛いから手の甲をつねる、手の甲が痛いから頬を平手打ちする、頬が痛むから足のすねをハンマーで叩く、…」この罪量産体制のスパイラルを脱けるためには、「注射の痛み」を「注射の痛み」として何かで誤摩化すことなく引き負う、そのことがどうしても必要になるのだろう。



  ちなみに、「毒をくらわば皿まで」という諺を、僕はずっと「毒をくらわば皿まで『くらえ』」という意味で勘違いしてきました。「なんで皿食べてんの!?」という感じですよね笑。正しくは「毒をくらわば皿まで『舐れ』」だそうです。