人が生きていると、「いつもと変わらない日常」と、「自分にとって特別な価値をもつ経験」の二つと出会うように思う。
両方とも大事なのは間違いないが、今日は二つ目の「特別な経験」について考えてみた。
「日常」を皆が経験しているように、自分にとって特別な体験もまた、誰しもが経験してきたものであろう。
例えば、ある日見た夕焼けの胸にささる美しさ。
腹を割って話してくれる友人との対話。
心を震わせる読書体験。
全力で打ち込んだサッカー。
全力で打ち込んだサッカー。
大好きなバンド仲間と臨んだライブでの演奏。
あるいは、自分を悩みと悲しみから救い出してくれた言葉、メッセージ。
あるいは、自分を悩みと悲しみから救い出してくれた言葉、メッセージ。
…それらはすべて、自分が何かとても特別なものに触れた気がした体験である。
だけど、そのような感動をどうにか伝えようと言葉にしても、どうにも薄っぺらくしかならない。
自分が伝えようとした相手も、どうもピンと来ていないようである(僕の表現が下手だということは大いにあるが)。
相手は僕が何にそんなに感動しているのか分からず、「ふーん」としか言えない。
そうこうしてるうちに記憶も薄くなり、あれほどまでに沸き上がった感情はまるで夢だったかのように醒めていく。
そして、日常に戻る。今までと何も変わらないように思える日常に。
最近、『千と千尋の神隠し』を久しぶりに観た。
「神隠し」という名の通り、主人公の荻野千尋(千)とその両親は森のなかの神域に迷い込む。
そこから目を見張るのは、神々の集う「油屋」で働く経験を通して、臆病だった千が成長してゆく姿である。
鼻がひん曲がるくらい臭い「腐れ神」の世話をし、自分を喰らうかもしれないカオナシに面と向かって対峙し、ハクを救うために命がけの旅に出かける。
そして最後には、豚になった親を助け出し、無事「現実世界」という元の日常へと帰っていった。
そこに描かれていたのは、日常を離れた「神域」での経験を通して、立派な成長を遂げた千の姿であった。
しかしここからが面白い。
神域と日常とのあわい、その出入り口であるトンネルを通って日常へと帰るその最中、千尋は母親にすがりつくように歩いている。
「行き」にこのトンネルを通ったときと、全く同じ、怯えた表情。あれほど勇気に溢れていた「千」はどこへやら、いつのまにか元の臆病な「千尋」に戻っているのだ。
おそらくは、千尋の「向こうの世界」での記憶も不確かなものになってしまっている。
さすが駿さんである。ここで示されているのはきっと、非日常の特異な体験はほとんどの場合、僕たちの日常の姿をドラスティックに変えることはない、という経験的事実である。
どんなに特別で心震えるような体験をしても、どんなに自分の世界観を揺るがす新しい世界を見ても、どんなに本気度の高い決意をしても、僕たちの日常は、結局のところそれほど変わらない
。新鮮な気持ちはせいぜい一週間持てばいい方だろうか。
結局のところ、「いつもの日常」へと馴染んでいく。
「変わった」はずの自分が、実は全然変わってなかったことに気付かされる。
更に言えば、そもそも「神域」での体験は他人と共有することが出来ない(冒頭で述べた通り)。
またそこから受け取った感動やメッセージは、客観的事実として述べることが出来ないため、自分の記憶からすら消し去られていくかもしれない。
だけど、そこでの特別な経験はきっと、確かに僕たちの日常に痕跡を残している。
銭婆はこう言った。
「一度会ったことは忘れないものさ……思い出せないだけで」。
銭婆はこう言った。
「一度会ったことは忘れないものさ……思い出せないだけで」。
日常を超え出た「神域」での経験、「神」によって普段の生活から一時撤退させられる経験。
たとえ記憶から遠のいても、何も変わっていないかに思える日常のただなかに、それを通して贈られたものが今の自分を構成している(千尋が銭婆からもらった髪留めの「おまもり」のように)。きっと。