きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル4:7)
昨日の思想によって子供を縛るのは教育ではなく訓練である。…教育は訓練ではない。創造である。 (野村芳兵衛)

2012年12月10日月曜日

HAPPYかい?



いきなりで恐縮だが、一ヶ月後に僕は25歳になる。
学ばなくてはいけないところばかりの若造だが、生まれてからもう四半世紀が過ぎようとしているんだなぁと思うと、少しばかり感慨深い。

高校在学時も大学生に進学した後も、ピーターパンシンドローム的な症状を患っていた自分にとって、「大人になりたくない」という思いは結構つよいものであった。
しかし、もうぼちぼち、そんなことも言ってられない歳になってきている。
これからは、子供心を忘れないような大人になるのが夢である。
具体的には例えば、毎年初雪を喜べるようなお爺ちゃんになりたい。
いや、ガチでそう思っている。


大人になりたくなかった自分ではあるが、誕生日を迎えることは嬉しいことだった。
自分の誕生を祝ってもらえることは、本当に感謝なことだ。
祝ってもらうなかで、他の人から承認されていることを感じることができる日、それが誕生日だった。

しかしながらここ数年、誕生日を迎えることに対して、なにか少し素直に喜びきれない自分がいることを発見する。
誕生日プレゼントを贈ってくれる人がいる。誕生日会を企画してくれる人がいる。本当に嬉しいことだ。
心からありがとうと思う。
だけど同時に、祝いの言葉をきかなくなった友人のことが脳裏によぎる。
仲良かった人が、次の年にはもう連絡もあまり取らない関係になる。
特別なことではない。
ある程度の付き合いを続けている友人でも同じだ。
ちょっとしたきっかけで、「親友」との距離は開く。
環境が変われば、人の繋がりは薄れる。
それだけのこと、当たり前のことだ(寂しいけれど)。

贅沢な性格なのである。
親しい人といつまでも親しくありたい、他者の変わらぬ友情・愛情を受けとりたいと、願っている。
親しい人との関係に慣れてしまっているのだ。
それが自分に与えられることがまるで当然かように、そういった人間関係を願ってしまうのである。
他の人の誕生日を、自分だっていつも本気で祝えるわけではないくせに。
とことん自分勝手な生き物である。
きっと僕は贅沢にも、いつまでも変わることのない愛を手にしたいと、願っているのだ。


Bump of Chickenには、「HAPPY」という曲がある。
Happy Birthday」というフレーズをリフレインするこの曲を、とりあえずはバンプ流「バースデーソング」と呼んでよいと思う。
しかしこの曲には、「誕生日おめでとう!」「生まれて来てよかったね!」という底抜けた明るさは微塵もない。
なんというか…、暗いのである。
いわゆるバースデーソングとは一線を画す歌詞。

                悲しみは消えると言うなら
                喜びだってそういうものだろう
                誰に祈って救われる?
                継ぎはぎの自分を引きずって
                闘う相手さえ分からない
                だけど確かに痛みは増えてく

「“HappyBirthday」と言われる日であるにも関わらず、幸せが感じられない。
いや、ことは誕生日に限ったことでは全くない!
生まれてきたことそのものを、“Happy”だといつも実感できるわけじゃない。そんな僕たちがいるのだ。

「なんでおれ生きてんだろ」という根本的な疑問を抱えつつ、それでも歳を取って生きていく。
人生には悲しみが多いばかりか、自分の心を震わせた喜びはすぐに消え去っていってしまう。
なら生きる意味はどこにあるのか。

かけがえないと思ってた喜びには賞味期限がある。
大切な経験も、誰かとの友情もまた、移ろい消えていくかもしれない。
だけど、もう過ぎ去って戻ってはこないその時間から、私は何か大切なものを確かに受けとってきた。
「なくしたものに残された愛しい空っぽ」のうちに、消えない何かが残っている。
だとしたら僕は、全てが移ろい消えていくこの地上の人生のなかで、変わらないものを受けとってきたのではないか。

悲しみとある種の諦観のうちに微かに光るこの希望について、「Happy」は歌っている。
「生まれてきてよかった」なんて簡単に言えないと思う人に向けた、「Happy Birthday」の曲。



クリスマスが近い。
忙しさや他人をうらやむ気持ちのなかで、「人生は無意味」「こんなことやって何になんだろ」そう囁く声が聞こえてくるかもしれない。
自殺者が最も多いシーズンというのもうなずける。

そんななかで、むしろこの時期だからこそ、生まれてきたことの意味を、あるいは新しい命をもらったことの意味を、もう一度味わう冬となりますように。

2012年11月3日土曜日

「神隠し」の経験




人が生きていると、「いつもと変わらない日常」と、「自分にとって特別な価値をもつ経験」の二つと出会うように思う。
両方とも大事なのは間違いないが、今日は二つ目の「特別な経験」について考えてみた。

「日常」を皆が経験しているように、自分にとって特別な体験もまた、誰しもが経験してきたものであろう。
例えば、ある日見た夕焼けの胸にささる美しさ。
腹を割って話してくれる友人との対話。
心を震わせる読書体験。
全力で打ち込んだサッカー。
大好きなバンド仲間と臨んだライブでの演奏。
るいは、自分を悩みと悲しみから救い出してくれた言葉、メッセージ。
それらはすべて、自分が何かとても特別なものに触れた気がした体験である。

だけど、そのような感動をどうにか伝えようと言葉にしても、どうにも薄っぺらくしかならない。
自分が伝えようとした相手も、どうもピンと来ていないようである(僕の表現が下手だということは大いにあるが)。
相手は僕が何にそんなに感動しているのか分からず、「ふーん」としか言えない。
そうこうしてるうちに記憶も薄くなり、あれほどまでに沸き上がった感情はまるで夢だったかのように醒めていく。
そして、日常に戻る。今までと何も変わらないように思える日常に。


最近、『千と千尋の神隠し』を久しぶりに観た。
「神隠し」という名の通り、主人公の荻野千尋(千)とその両親は森のなかの神域に迷い込む。
そこから目を見張るのは、神々の集う「油屋」で働く経験を通して、臆病だった千が成長してゆく姿である。
鼻がひん曲がるくらい臭い「腐れ神」の世話をし、自分を喰らうかもしれないカオナシに面と向かって対峙し、ハクを救うために命がけの旅に出かける。
そして最後には、豚になった親を助け出し、無事「現実世界」という元の日常へと帰っていった。
そこに描かれていたのは、日常を離れた「神域」での経験を通して、立派な成長を遂げた千の姿であった。

しかしここからが面白い。
神域と日常とのあわい、その出入り口であるトンネルを通って日常へと帰るその最中、千尋は母親にすがりつくように歩いている。
「行き」にこのトンネルを通ったときと、全く同じ、怯えた表情。あれほど勇気に溢れていた「千」はどこへやら、いつのまにか元の臆病な「千尋」に戻っているのだ。
おそらくは、千尋の「向こうの世界」での記憶も不確かなものになってしまっている。

さすが駿さんである。ここで示されているのはきっと、非日常の特異な体験はほとんどの場合、僕たちの日常の姿をドラスティックに変えることはない、という経験的事実である。
どんなに特別で心震えるような体験をしても、どんなに自分の世界観を揺るがす新しい世界を見ても、どんなに本気度の高い決意をしても、僕たちの日常は、結局のところそれほど変わらない
。新鮮な気持ちはせいぜい一週間持てばいい方だろうか。
結局のところ、「いつもの日常」へと馴染んでいく。
「変わった」はずの自分が、実は全然変わってなかったことに気付かされる。


更に言えば、そもそも「神域」での体験は他人と共有することが出来ない(冒頭で述べた通り)。
またそこから受け取った感動やメッセージは、客観的事実として述べることが出来ないため、自分の記憶からすら消し去られていくかもしれない。


だけど、そこでの特別な経験はきっと、確かに僕たちの日常に痕跡を残している。
銭婆はこう言った。
「一度会ったことは忘れないものさ……思い出せないだけで」。

日常を超え出た「神域」での経験、「神」によって普段の生活から一時撤退させられる経験。
たとえ記憶から遠のいても、何も変わっていないかに思える日常のただなかに、それを通して贈られたものが今の自分を構成している(千尋が銭婆からもらった髪留めの「おまもり」のように)。きっと。